しろうと芸ふたたび

私は興味もかかわりも無いのだけれど、私が住んでいる岩手県盛岡市には文士劇という催しがある。これは、盛岡ゆかりの作家や有名人が年一回、手弁当で作り上げている自作自演のお芝居で、今や盛岡の冬の風物詩、市民なじみの催しになっている。残念ながら、私はその舞台もテレビ中継も見たことが無い。申し訳ない。
 昔は類似の催しが東京でもあったとのことだけど、それは七十年代終わりに途絶えてしまって、今、このような文士劇が続いているのは全国を探しても盛岡だけであるらしい。
 この文士劇が最近、全国的に有名になって、今年はついにその東京公演が行われた。その東京公演も大盛況で、地元で見られなかった盛岡市民がわざわざ上京して見に行くほどの人気である。それを私は地元紙の記事と写真で見ただけなのだけど、開幕に当たって「しろうと芝居に六千五百円も払ってくださってありがとうございます」と盛岡弁であいさつがあったとのことである。そんなところも盛岡らしくていい。
 私は、この文士劇の内容よりも、有名人が演じるそんな懐かしくて暖かいお芝居がこんなに人気がある、ということの方に興味がある。
 しろうと芸、と言うと否定的な意味で使われることが多いけれど、我々はそんな懐かしくて暖かい、しろうとの芸に飢えているのではないだろうか。
 文士劇と一緒にするのはもしかしたら失礼なことなのかもしれないけれど、ほんの三十年か四十年くらい前までは、週末になるとデビューしたばかりの若いタレントが、テレビのバラエティ番組の中でそんなしろうと芝居を繰り広げていた。少年時代の私はそれを毎週楽しみに見ていたし、口の悪い大人たちも、「学芸会」とか悪口を言いながらも楽しんで見ていたのを私は憶えている。たまにテレビで当時の映像が流れることがあるけれど、それは今見ても初々しくて面白い。けれど、いつのまにかそんな番組は無くなってしまったし、年末年始に毎年放映されていた、有名人のかくし芸大会もいつのまにか終わってしまった。あれもとても面白かった。
 なんだか世の中が変に洗練されすぎて息苦しくなっているような気がする。最近は、小学校の運動会や学芸会までが「観客に感動を与える」ことを目標にしていると言うし、中学校や高校のブラスバンドは猛練習と引き換えに、プロ顔負けのものすごい演奏をする。あるいは、田舎の高校の野球部の選手のプレイが信じられないくらい洗練されている。
 みんながみんな、そこまでしなくてもいいじゃないか、と思っているのは私だけなんだろうか。身内や有名人が演じる、はつらつとした、あるいは初々しいしろうと芸を見たい、それを楽しみたい、応援したい、と思っているひとはたくさんいるのではないか、という気がする。
 厳しく研ぎ澄まされたプロの芸はもちろん必要だけど、そればかりでは世の中が息苦しくなってしまうし、みんながみんなそれを目指すのも、決して楽しいことではないし幸せなことでもないだろう。私は中学校のブラスバンド部で、決して上手くはなかったけれど、とても楽しくて幸せな三年間を過ごしたので、しろうと芸の素晴らしさをよく知っているつもりである。そして、もしかしたら、そんなしろうと芸のすそ野こそがプロの芸を支えているかもしれないのだ。
 そのブラスバンド部を引退する頃に私は写真を始めた。それから今にいたるまで、私の写真はずっとしろうと芸であり続けている。要するに、私はこれから死ぬまで「しろうと写真家」なのである。だから、私は写真を撮るのがつらいと思ったことは一度も無い。それが私の最大の誇りでもある。以前、十文字美信さんが言っておられたけれど、写真はいつも楽しくなければならないのだ。
 少年時代から死ぬまで、何十年もずっとしろうとであり続けて、それをたくさんのひとが真剣に楽しんで 応援してくれる。こんな幸せなことが他にあるだろうか。だから、写真に限らず、はつらつとしたしろうと芸がもっともっと世の中にあふれてきて欲しい。それはとてもとても幸せなことだと私は思うから。
 もしかしたら、一生しろうと芸を続けるのも才能の一種なのかもしれない。楽しく厳しく、しぶとく気まぐれに続けたい。


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