まつりごと

何だかよく分からないままに急に衆議院が解散されて総選挙が行われるということである。この文章がおおやけになる頃には選挙の結果が出ていると思うけれど、私がこれを書き始めているのは公示の直前である。だから、私には本当に何だかよく分からない。その費用に六百億円もかかるということだけど、その仕事で食いつなぐことができるひとのことを考えると、私はこのわけの分からない解散にあまり異議をとなえる気も無くなってしまう。
 ただ、私が気になるのは、今回の選挙で有力だと見られている三つの党のいずれもが、国の膨大な借金を返すことをあまり真剣に考えてはいないらしい、ということである。つまり、どの党が勝っても国の財政は悪化するばかりで、そう遠くない将来に日本の財政が破綻することがこれで確実になった、ということになるのだろうか。
 膨大な借金に目をふさいで、はかない夢をみているのが今の我々かもしれない。まさに砂上の楼閣である。我々には、借金の恐ろしさを心配する余裕がもう残されていないらしい。
 日本で財政破綻が起これば世の中はどんな具合になるのだろう。私には見当もつかない。消費税はどのくらい上がるのだろうか。そして、大企業も役所もばたばたつぶれて、失業者が世の中にあふれることになるのだろうか。それと関係があるのかどうか私には判らないけれど、かつて優良企業と言われていた大企業の、信じられないような不祥事が今、次々に明らかになっている。
 それが分かっていても、会社に縛られて過労死するまで働く奴がたくさんいる、ということが私には信じられないし、最高学府を卒業しようという優秀な学生の多くが、すべてを犠牲にしてそんな奴らの仲間になろうとしているのも私には理解できない。生活のレベルを下げればそれで済むことである。もはや、お金の価値さえいつまでも絶対とは言えないのに、がつがつ働いても仕方が無い。そうとしか思えない私はそんなに変わっているのだろうか。私には本当に分からない。
 二〇二〇年代から三〇年代にかけて、再び日本で壊滅的な大地震が起こるのは確実だ、と地震学者は言っているし、歴史年表を見ると、日本ではだいたい十五年おきくらいに大きな地震が起こっている。また、火山学者は、次の大地震の直後には富士山の噴火が伴う可能性が高いと言っていたのを私は憶えている。そして、あと数年で関東大震災から百年を迎える。
 もうひとつ私が不思議に思うことは、福島の原子力発電所の後始末には最低であと四十年かかる、ということだけれど、その四十年の間にまた大地震と大津波が来たらどうするつもりなのだろう。もう本当にどうしようもないので、怖くて誰も言い出せないのだろうと私は思っている。
 北朝鮮のミサイルが日本の原子力施設を正確に狙い撃ちする能力を獲得するのも、おそらく時間の問題なのだろう。連中が実際にミサイルを撃ってくることは無いだろうと私は思うけれど、それを使って我々を脅してくることはあるかもしれない。いくら連中に圧力をかけても彼らの横暴を止めることはできないだろう。戦時中の日本が、どれだけ窮乏しても戦争を止めようとしなかったのと同じだと私は思う。
 あるいは、数年前にロシアに落ちたような隕石がまた落ちてくることも必ずしも絵空事ではない。いずれに対しても我々は無力である。本当にどうしようも無い。「安全基準」が茶番なのは私にでも分かる。
 将棋の羽生善治さんの名言に「未来に対しては楽観的に、過去に対しては懐疑的に」というのがあったのを私は憶えている。未来の悲観的な可能性はいくらでも考えられるけれど、そのすべてが実現することはあり得ない、という意味だったと思う。私もたしかにそのとおりだと思う。ただ、その悲観的な可能性のうちのひとつかふたつは我々の前に立ちはだかることを覚悟しなければならない。この名言にはそこまでの意味が込められていると私は思っている。いたずらに悲観するよりも、その時に我々ひとりひとりはどうすればよいのか、今のうちに冷静に検討しておかなければならない。この名言を、私はそんなふうに理解している。そのためにも、過去は厳しく懐疑的に検証しなければならないのだろう。
 世の中がこれからどうなるのか、あるいはどうなるべきなのか、それを口にするひとはそれこそ掃いて捨てるほどいるけれど、その中で、我々ひとりひとりがどう生きてゆけばよいのか。不思議なことに、それを問いかけるひとが見当たらない。繰り返しになるけれど、たとえかりそめではあっても、こうして平穏で豊かな世の中が続いているうちに、それを考えておいた方がよいのではないかと私は思う。
 この奇妙な世の中、つまり乱世は、おそらくあと何十年も何百年も続くのだろう。内藤湖南という学者が応仁の乱について述べた文章を私は憶えている。乱世の間はろくな指導者は出ない、長い長い乱世が終わる時にようやく優秀な指導者が出る。このひとはそう言っていたような気がする。
 だからと言って、私はべつに悲観しているわけではない。そうではなくて、これからも続く長い乱世を自由に楽しく生きてゆくことは充分に可能だろう、と思っているのだ。そのためには、かつての、平和で豊かでのんびりしていた時代を思い出してそこに遊ぶのも決して逃げではないだろう。これから何が起こるのか、そんな場所から私はそれをしたたかに見つめてゆきたい。見ろよ青い空白い雲、そのうちなんとかなるだろう、というわけである。こんな乱世にあっては、金持ちよりも貧乏人の方がタフである。余分なお金が無ければ取られずに済むし、貧乏人の方が心配事も金持ちより少なくて済む。
 それにしても、政治を「まつりごと」とはよく言ったものだと私は感心している。それについて、あまりマジメに考えても仕方が無いので、ここは、国が主催する大きなお祭りだと思って楽しんで見ているのも一興である。自然界も人間界も不穏で乱れている時は、こんなふうに、いたずらにお祭りを繰り返すしか人間にはなすすべが無いのかもしれない。
 そんなお祭りを楽しむには、まずは一口参加しなくてはならない。つまり、必ず投票には行かなくてはならない。「政治には関わるな、ただし投票には必ず行け」と、昔誰かに言われた言葉を私は改めて思い出している。私ひとりの一票で世の中が動くわけは無いけれど、それは、外の世界を見る目を曇らせないための、つまり自分のための儀式なのかもしれない。そんなふうに選挙や政治を考えてみるのも悪くないような気がする。
 結局、私は馬鹿なんだろうと思う。ただ、それが、私の写真の楽しみをより深くしてくれるのではないか、という奇妙な予感もある。クレイジーキャッツの「何が何だかわからないのよ」という歌を私は思い出したりしている。まずは気楽に冷静に生き延びたい。いつのまにか、本当に乱世がやって来てしまったけれど、本当の乱世はおそらくこれから始まるのだ。


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