「許す」絵

七月の終わりに私は盛岡で開かれているビートたけしの絵の展覧会を見に行った。これは個展ではなくて、アートによる震災復興支援として、彼の他に中国の書画家とアメリカの画家との三人展だった。三人とも私はその作品を見るのは初めてだったけれど、今の私にはビートたけしの絵がいちばん素晴らしく思えた。
 彼の絵の実物をみるのはこれが初めてだったけれど、その妖気は印刷で見ていたのではまったく伝わって来なかったように私は思った。それは決して難解な絵ではないし、重苦しいものでもないのだけれど、あの妖気はいったい何だろうか。そして、実物でしか伝えることができない妖気を作品にこめることができるのは、本当にごく少数の選ばれた作家だけである。その意味で、ビートたけしはとんでもなく気難しい、たぐいまれな天才なのだと私は思った。
 そして、その妖気とは裏腹の、あのお気楽な解放感は何だろうか。あんなに気持ちを楽にしてくれる絵を私は初めて見たように思う。「こんなものでもひとは結構勇気づけられるんだよね」とビートたけしは語っていたけれど、それが出来る作家はそうたくさんはいないだろう。 私なりにあれこれ考えてみたのだけれど、もしかしたら、ビートたけしというひとは、自分を許すことができるひとなのではないだろうか。彼の活躍ぶりをよく知るひとならとっくに気がついていることかもしれないけれど、それが私の結論である。
 おそらく、人間にとっていちばん困難で、しかも尊いことが「許す」ということなのだと私は思う。自分を許すことは他人を許すことであるし、この不完全で理不尽な世界を認めてやることでもある。それは神の御心を知る唯一の方法かもしれない。
 写真を撮り続けているくせに、私はまだそれが出来ない。自分を他人を世界を許す、ということは私がいちばん望んでいることである。だから、それを見事になしとげているビートたけしの絵に私は感動するのだと思う。
 ビートたけしの絵を見て数日後、障害者施設で十九人が殺されるというとんでもない事件が起きた。深夜に起きたその事件を朝目覚めた直後にニュースで聞かされて、私はそのまま出勤した。あの日は一日中気分が悪くて、決して仕事がひまなわけではなかったけれど、今日は早引きしてしまいたいと何度も考えながら仕事を続けていた。あの日は思い出したくない、とても嫌な日になってしまった。
 犯人は極めて身勝手な理屈をこしらえて思い上がったあげく、薬物を使用していたとのことだけれど、その犯人を諭すように語っていた、別の障害者施設の責任者の言葉が私は忘れられない。「人間は神ではないのだから、いかなる理由であっても彼らを殺す権利なんか無い。彼らの面倒を見続けなくてはならない」という意味の発言だったと思う。
 もしかしたら、戦争や死刑を含めて、あらゆる殺人は「神になった」という思い上がった妄想のもとに行われるのだろうか。そして、これも私の偏見かもしれないけれど、殺人を認める神は一神教の神ばかりであるような気がする。
 そんな思い上がり、あるいは殺人を認める神というのは人間の心の病気の一種なのだろうか。そんな邪悪な神との一体感は麻薬のような陶酔をもたらすのだろうか。それにとりつかれると、人間は人間でなくなってしまって、何十人、あるいは何百万人を殺しても何の後悔もしないような鬼になってしまうのだろうか。私は、「悪」は天敵がいなかった人間が発明した人工的なものだ、というサル学者の言葉とか、あるいはそれに近いことを考えていたような気がする親鸞上人を思い出したりした。思い上がった人間は何も許せなくなってしまうだろうから。
 あれほど凶悪な犯罪者でなくとも、邪悪な神に取り付かれて正気を失いかけている人間、あるいは、こっけいなほど思い上がって手がつけられなくなってしまった人間は、誰のまわりにもひとりかふたりはいるだろう。触らぬ神にたたりなしとは言うけれど、そんな邪悪なものを生んでしまう世の中は間違っているのだろうと私は思う。それとも、こんな事件が起こる今は、そんな事件が横行していた戦前や終戦直後と同じ混乱期にあると覚悟した方がよいのだとも思う。
   今まで無害だった微生物が、ほんのささいな環境の変化をきっかけにして、極めて危険な病原菌に変異してしまう。あるいは、最初は極めて戦闘的だった新宗教が、世の中に広まるにつれて平和な教えに変わってゆく。しかし、何かのはずみで戦闘的な部分が復活してしまう。そんなことを私は思い出している。これは、生命や宗教の本質にかかわることかもしれない。
 うじゃうじゃ集まってせこせこ暮らしているから我々の中からそんな邪悪な毒が生まれるのではないか、という気がする。しかし、昔の一神教は砂漠や荒野でしか生まれなかった、と聞いたこともある。あんな狂気を生む文明社会というのはその意味で砂漠や荒野でしかないのだろうか。本物の砂漠や荒野ももちろん自然なのだけれど、私はそれを体験したことが無いのでこれ以上何も言うことはできない。もちろん、本物の砂漠や荒野にも、何らかの精神の豊かさがあるらしいことは私にも少しは想像できる。
 自然を見つめていれば、もちろん我々の身体だって自然なのだけれど、あんな狂気に溺れることはないだろうと私は思う。自然と向き合っていれば、神になったと思い上がることなどできないし、逆に、神の御心を知る用意をすることができるだろう。つまり、自分を他人を世界を許す用意が出来るのだと私は思う。
 話はもどるけれど、もしそうなら、ビートたけしはまさに大都会の自然児と言うにふさわしいひとなのだろうか。もういちど私はあの三人の展覧会に出掛けてみることにしよう。ビートたけし以外のふたりの芸術家の作品も、もっと見えてくるかもしれない。まさに「こんなものでもひとは結構勇気づけられるんだよね」という言葉に行き着くのだ。


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