美しくて救いの無い音楽
土曜日の朝、寝床でうとうとしながらFMを聞いていたら「国家がこわれてきている」という声が聞こえてきて目が覚めてしまった。声の主はピーター・バラカンだったと思うけれど、なるほどそのとおり、イギリスやアメリカの騒動にせよ、世界中で起きているテロ事件にせよ、日本の混乱にせよ、今、マスコミを騒がせているニュースはこのひとことで過不足無く説明できると私は深く納得した。これは、これ以上何も付け加える必要が無い簡潔な至言だと私は思う。
国家がこわれてきているということは、その一員である我々もこわれてきているということになるのだろう。我々のつながりがこわれてきているのか、それとも我々ひとりひとりがこわれてきているのか、きっとその両方なのだろう。
この文章が掲載される頃には参議院選挙も東京都知事選挙も終わっているはずだけれど、今は選挙運動の真っ最中だというのに世の中は不思議なくらい冷めている。町も静かだし、面白いことを言う政治団体も候補者も見当たらない。そして、新聞も週刊誌も政治とは無関係などうでもいい記事ばかりを載せているみたいだ。
無言の圧力なり奇妙な自己規制が予想以上に進んでいるということなのだろうか。世の中がお祭り騒ぎに浮かれている間は凶悪な犯罪は起こらないはずなのに、政治が冷めていると選挙期間中だというのに凶悪な犯罪ばかりが起こるような気がする。今のところテロが起こらない日本では、絶望はこんな形で現れるのだろうか。
こんな、息苦しくて冷めきった世の中で正気を保って生きてゆくにはどうすればよいのだろう。外国で起こったテロ事件で出された犯行声明に目を通してみても、そこにはまるで陰影が感じられない。0か1か、それしかあり得ないような印象を受けて、これが生身の人間の声とは私にはとても思えない。テロリストにさえ、何かを訴えたいという気迫が感じられないのは極めて異常ではないのか。もしかしたら、それは彼ら犯罪者に限ったことではないのかもしれない。
十年くらい前、池田晶子さんが「人間が変質した」と言っていたけれど、そんな不気味な人間が世の中の多数を占めるようになったのだろうか。それは、手塚治虫のマンガに出てくる、洗脳されきったうつろな市民の集団を思わせる。町を歩いても、そんな暗い表情をしている連中とすれ違うばかりではないのか。
こんな、明るい絶望があふれた世の中を生きてゆくには、そんなうつろな人間になってしまうのがいちばん安易な方法なのかもしれない。ただ、その代償としてどこかにゆがみが蓄積されてゆくことになるし、それはいつか暴発して我々を傷つけることになる。
まさに砂上の楼閣のような世の中なのに、そのうわっつらには薄っぺらで明るいものばかりがあふれているので私にはとてもやりきれない。話は飛ぶけれど、以前、長調の明るい音楽ばかりを聞かされて育つ最近の子どもたちが可哀そうだ、と言っていた作曲家がいた。
ひたすら暗く悲しくて希望が無い音楽。そのくせ洗練されていて、聴き手が過剰に涙におぼれることも許さない厳しい音楽。本当にどうしようも無くなった時、身も心もすり切れてしまった時に私に寄り添ってくれたのはそんな音楽だったと思う。それが疲れ果てた私の正気を守って生き延びることを助けてくれた。
ジョン・コルトレーンの「クレッセント」というアルバムに入っている「ロニーズ・ラメント」とか「ジュゼッピ・ローガン・カルテット」に入っている「ブリーカー・パルティータ」が私にとってそれに当たる。
暗く悲しく希望が無くてひたすら美しい、という意味では「ポール・ブレイ・カルテット」の最後に収められているブレイのソロ「トリステ」とか、武満徹の死後に彼が遺したメロディーに谷川俊太郎が詞を付けて石川セリが歌った「MI・YO・TA」がそうだ。そのレコードやCDを私は大切に持ち続けているけれど、ふだんはそれをおいそれと聴く気にはなれない。でもその音楽を忘れることは片時も無い。
そんな音楽を知っていれば、あんなふうにならなくとも人間はなんとか生きていけるのではないかと私は思う。もちろん私が知らないだけで、ロックやクラシックや世界中の伝統音楽にもそんな音楽はたくさんあるのだろう。しかし、今、世界中にはびこる犯罪者連中がそんな素晴らしいものを知っているとは私にはとても思えない。不幸なことだと思う。
連中はいったい何を食べて何に接して生きてきたのだろう。そんな大切なものは学校では教えてくれないものなのだけれど、学校やマスコミで教えるものしか吸収できない不幸で優秀な連中は日本だけでなくて、世界中にたくさんいることが最近になって分かってきた。
それでも、芸術や教養がいつも人間の正気を守ってくれるかというとそんな保障も無いだろう。ナチスの強制収容所で大量殺人に励んでいた軍人だか役人連中は家庭に帰ると古典文学やクラシック音楽の愛好家だったと言うし、政治思想にかぶれてテロを引き起こしたりした作家は日本にもいた。
それではどうすればよいのか、私には本当に分からない。ひとつだけ思うことは、せっかく与えられた孤独をもっと大切にした方が良いのではないかということだけだ。孤独を大切にして、それをしなやかに鍛えてゆくというのは、この世に生きている人間だけに許された特権である。その前では世の中の荒廃など色を失ってしまう。見ろよ青い空、白い雲、そのうち何とかなるだろう、というわけである。そこからすべてのつながりが始まるのだと私は思う。