ヴィヴィアン・マイヤーに出会って

この三月、盛岡で小津安二郎の「東京物語」がかかったので私は映画館に見に行った。小津安二郎の映画を見るのは私はこれが初めてだった。
 少し時間に余裕を持って映画館に着いたので、ふと向かいの別の映画館を見ると「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」というドキュメンタリー映画をやっていることが分かった。そのポスターを見ると、ヴィヴィアン・マイヤーという女性はどうやら写真家のようである。ローライフレックスやライカを使って街を撮り続けたものの、まったく無名のままで世を去って、残された膨大なプリントやネガや未現像のフィルムを発見したひとが必死にそれをまとめて世に出したとのことである。その過程を記録したのがこの映画らしい。
 ポスターに大きくプリントされていた、ローライフレックスで撮った街角でのセルフポートレートはとても素敵だ。「このひとは写真史を変えたかもしれない」といったせりふも誇張ではないような気がする。腕時計を見ると上映開始まであと五分である。上映は一週間で終わるようなので、この映画を見る機会は今しか無い。どうしようか。しかし「東京物語」も今しか見ることができない。結局「今日は「東京物語」を見に来たんだ」と私は自分に言い聞かせて本来の映画館に入った。
 「東京物語」はもちろん素晴らしかった。映画の終盤、原節子がスクリーンに大きく映し出されて「世の中いやなことばかりね」と言う場面に私はいたく感動した。原節子というひとが、どれだけ心身をすり減らして演技しているかということも痛いほど伝わってくる。このひとが早々に引退してしまった理由が私にもよく分かる。それを理解できないひとがたくさんいるということが私には不可解に思えた。
 村上春樹が三十年くらい前に書いたエッセイでこの映画を取り上げていたのを私は憶えている。村上春樹が「おそろしく様式的なくせに、妙に生々しいのである」と言うのはそのとおりだと思う。縦になって燃えている蚊取り線香が不思議だ、と言うのもそのとおりだ。
 ただ、このエッセイのとおり、村上春樹が本当にベルリンのホテルでドイツ語吹き替えの「東京物語」を見たのかどうか私には判断がつかない。しかし、このエッセイを読んで三十年も経って、私はようやく村上春樹が書いていたことを納得することができた。それにしても、もしかしたら名作映画というのはすべて「おそろしく様式的なくせに妙に生々しい」ものなのかもしれない。そこが映画と写真の違いなのだろうか。
 それから、この映画の始めのあたりで、川の土手で東山千栄子が孫(だったか)と遊ぶ場面があったけれど、私はどこかでこのアングルを見たことがある、と思って考えてみたら、これは植田正治の写真ではないだろうか。植田正治は、鳥取の砂丘にモデルを配してこのアングルで撮っていたように私は思う。もちろん、私は植田正治の独創に疑義をはさんでいるわけではなくて、植田正治のアングルには多分にその時代の影響があったのではないか、と考えているだけだ。この映画が初めて公開された頃に植田正治はあの名作を撮り始めていたと思う。
 そんなわけで、この日に私が「東京物語」を見たのはとてもよかったと思うのだけど、見逃してしまった「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」が気になって仕方が無い。地元紙の映画案内を見るとこの映画はずいぶん好評のようで、その後に上映回数が増やされている。しかし、予定どおり一週間で終わってしまって私はこの映画を見ることができなかった。
 ネットでこの映画について検索してみると、おおむね好意的な評ばかりである。そして、Vivian Maierで検索してみると素敵な写真が次々に出てくる。日本版の彼女の写真集は出ていないけれど、二〇一一年にアメリカで出た写真集はまだ在庫があるらしい。その、ローライフレックスで撮ったモノクロームの「Street Photographer」という写真集の値段は三十九ドル、手の届かない値段ではない。
 思い迷ったあげく盛岡の老舗の書店に相談してみると、こともなげに「リサーチして取り寄せますよ」とのことである。十日くらいして「日本国内には在庫が無いのでアメリカから輸入します」という連絡が入って、結局ひと月ちょっとで私はこの写真集を手に入れることができた。支払いは日本円で済んだのも嬉しい。この書店ではフランス語の本も注文できるとのことなので、いずれアジェやラルティーグの写真集も手に入るかもしれない。盛岡の本屋はただ者ではない、と行きつけの写真店のカメラマンは言っていたけれど本当にそのとおりである。もっとも、この写真店もただの写真屋でないのもたしかだ。いずれにせよありがたいことである。
 それ以来、私はこの「Street Photographer」を飽きずにながめている。もちろん行きつけの写真店のスタッフにも見てもらった。皆が絶賛する。ただ、写真の素晴らしさを言葉で説明すると嘘になってしまうから私にそれはできない。興味のある方はネットで検索してみてほしい。
 この、ヴィヴィアン・マイヤーというひとは一九二六年に生まれて、シカゴで住み込みの保母さんをして生きたひとだったとのことである。自分の写真を発表する意思を持たずに膨大な写真を撮り続けて、二〇〇九年に亡くなっている。人間だけではなくて、町で出会ういろんなものをこのひとは撮り続けている。町や自室で鏡に映ったセルフポートレートもたくさん撮っている。そのすべてがとても自然で素敵である。それだけでなくて、魅力的な息吹を感じさせる写真だと私は思う。見ていて本当に飽きない。写真の幸せという言葉を私は思い浮かべている。
 ただ、ヴィヴィアン・マイヤーというひとの人生が幸せだったのかどうか、それは誰にも分からない。伝記的な事実が極端に少ないひとらしい。なぜ自分の写真を発表する気が無かったのか、それも分からない。でも、繰り返しになるけれど、残された写真は本当に素晴らしい。セルフポートレートの中の彼女のまなざしは穏やかに澄み切っている。これこそがアマチュアの幸せではないかと私は深く納得する。
 写真は本来このようなものではないのか、という思いを私は新たにしている。アジェやラルティーグ、宮本常一、安井仲治、飯田幸次郎…私が敬愛してやまない写真家のほとんどがアマチュアである。同時代の尊敬する写真家、森山大道さんや中平卓馬さん、荒木経惟さんや立木義浩さんといったプロ作家も、それぞれの立場から、真のアマチュアリズムに最大限の敬意をはらっておられる方である。だから、私は不逞にも、プロの写真作家、プロのフリーカメラマンというのはそんなにえらいのだろうか、という疑念を捨てることができない。えらそうな口をきくプロを見るたびに私は思う。たかが写真ではないか、と。写真は音楽や映画なんかとはわけが違うだろう。
 「文学なんか職業にするものではない、そんなことは百も承知だった。けれどもそれしか稼ぐ手段が無かった」吉行淳之介と星新一がそれぞれ別の場所でそう語っていたのを私は憶えている。その気になれば何でもできる才人なのに、不運にも様々な事情でぎりぎりのところまで追い詰められて、やむを得ず真のプロ作家というものは誕生するのではないか。それは文学に限ったことではないと私は思う。そして、その過程で無残な挫折をして消えてしまうひともたくさんいるのだろう。
 幸いなことに、そこまで追い詰められなくとも素敵な写真はいくらでも撮れる。地獄は他の場所で見ればよい。
 だいいち、他人に評価される写真を撮るほどの才能がある人間ならば、わざわざプロなんかにならなくとも、もっと世のため人のためになる職業を見つけることができるはずだ。そのかたわら素敵な写真をたくさん残せばよいだろう。たいして追い詰められてもいないのに、思い上がってプロの道を歩もうなんて人生に対する冒涜であろうと私は思っている。私だって、プロの世界で腐ってゆく連中を嫌というほど見てきたつもりだ。あの、なれ合ったいい加減な雰囲気が私は生理的に嫌いである。それを受け入れてしまうと、何か大切なものが決定的に鈍ってしまうような気がする。
 どの世界もへたくそなプロが多すぎるし、連中の生活の内実も実はみじめなもののようである。それならば、他の世界でリアルな地獄を見ている真のアマチュアの方がずっと幸せだと私は思う。それを承知で、それでもプロであろうとするのならば、カメラマンは写真を撮る職人に徹するべきである。
 「食べるために仕方なく働いているなんて言うのではだめです。職業の方も充実していなければいい作品は絶対に生まれません。それがアマチュアの厳しさであり幸せですよ。」私がいつも恩人に言われている言葉を最後に記しておきたい。そして、私はまたヴィヴィアン・マイヤーの写真をながめていたい。プロには絶対に撮れない素敵な写真がここにある。それを少しでも自分の糧にしたい。


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