身体と記憶と痛み
暑い。酷暑という言葉も炎暑という言葉も似合わないようなこの殺人的な暑さは何だろう。盛岡でさえこうなのだから、他はもっとすさまじいにちがいない。「天才バカボン」の冒頭で、パパが「暑くてまんがに出る気がしないのだ」とうちわをあおいでいたのを私は思い出す。それくらいしか頭がはたらかない。幸い、立秋を過ぎて暑さが少しおとろえてきて夜は安眠できるようになったので、私は気を取り直して何とかこうして文章を書いている。
しかし、暑さのストレスもあったと思うけれど、私は体調を崩して一日だけ仕事を休んでしまった。熱中症もあったと思う。朝、目が覚めて立ち上がると冷や汗が出てふらふらした。結局、部屋で扇風機を回しながら水を飲んで横になっているしかないのだけれど、その間、つまらない雑念がこれほど身体を痛めつけるものかと私は本当に驚いた。他人を憎んだりねたんだりするようなことをふと考えるだけで、気分が悪くなって身体のどこかが痛んだりするのである。身動きするのも難儀になる。
何があっても他人を憎んだりねたんだりしてはいけない。それは何よりも自分のためだったのである。それはエネルギーの浪費であり自傷行為である。当然、過去をふり返って無用な後悔をすることも私には許されない。私は私を生きてゆくしかない。謙虚に、できれば静かな自信を持って。
それを知ることが出来たのならば、この殺人的な暑さにも役目はあったのかもしれない。そして、そこから回復すると、外を歩いて写真を撮るのがこんなに幸せなことだったのか、ということが分かる。だから、外歩きのスナップ写真は、写真を撮る喜びに満ちた幸せな写真でなければならないのではないか、と私は思い始めている。
痛みと言えば、おそらく、常人には想像もできない身体の痛みを抱えていたミシェル・ペトルチアーニの録音を聴きながら私はこれを書いている。彼には遠くおよばないにせよ、理不尽な痛みを経験すると、彼の音楽がより深く理解できたような気になる。そんな体験を乗り越えた先には新しい私がいる。そして、そこには明るくて鮮やかな世界が広がっている。もしかしたら、ペトルチアーニはそれをよく知っていたのかもしれない。少なくとも、彼の音楽には私のそんな思い込みを許容する強さと優しさがあると思う。
理不尽な身体の痛みを乗り越えると、今まで私を縛っていた記憶を乗り越えられるはずだ。そんな確信が今の私にはある。忘れることは不可能だけど、新しい世界を生きるためにどうしても乗り越えなくてはならない記憶。楽しかったことも含めて、大切だった人間関係も含めて封印してしまいたい記憶。痛みとの闘いはその作業でもある。私は勝手にそう思い込んでしまった。深く根を張った記憶を引きはがすには痛みがともなう。それでも私はそこから離れて新しい世界を見たいと思う。甘美な記憶が毒に変らないうちに封印しておきたいと思う。
病院で先生に診てもらって、たいしたことはない、おさまるから大丈夫だと言われたので、あとは私自身の意思でそれを乗り越えるだけである。これは身体からのメッセージでもあるのだろう。
戸惑う私の気持ちはペトルチアーニの音楽にゆだねておきたい。今、私が聴いているのはヴィレッジ・ヴァンガードでのライヴ盤である。美しいけれど、とてつもなく厳しい音楽だと私は思う。