帰郷
新幹線の中で七十歳を過ぎた男が焼身自殺をするというとんでもない事件が起きた。その巻き添えを食らって無関係な女性がひとり亡くなっている。
犯人は岩手県遠野市の出身で、歌手を目指して上京するも夢はかなわず、故郷との縁をほとんど断ち切って東京で暮らしていたとのことである。ふだんは温厚な人柄であったというけれど、年金が減らされることに話が及ぶと人間が変わったように激怒していたらしい。犯行の直前、この男は新幹線の車内から区役所だったか年金事務所だったかに電話をかけていたそうで、何年か前の通り魔事件でも、犯人の若い男は犯行の直前に何かのサイトに書き込みをしていたのを私は思い出した。
この犯罪者たちは、ゆがんだナルシシズムが肥大してどうにもならなくなってしまったところが似ているような気がする。テロリストとか、ひと前で自殺を図る連中は皆そうなのかもしれない。それは今に始まったことではないのだろう。
ふり返ってみると、われわれの周りにはナルシシズムを肥大させる装置があふれている。ナルシシズムは人間が生きてゆくために必要不可欠なものだとは思うけれど、何事もバランスが大事であって、ナルシシズムに押しつぶされることは避けなければならない。それは見苦しいうえに他者に大変な迷惑をかけることになる。つまり、時には冷たい水をぶっかけられてひとは生きてゆく必要があるわけで、それでも気を取り直して再び歩き出す強さが何よりも必要になる。私だってそのくらいのことは知っている。結局、肥大したナルシシズムは必ず他者を犠牲にする。それに目をつぶる図太さは今の私には無い。
余談ながら、私が「私写真」を好きになれないのは、それがナルシシズムを肥大させやすい表現だからである。くどいようだけど、魅力的かつ冷静で古びることの無い「私写真」はきわめてまれではないかと私は思う。
話をもどすと、どんなに生活が苦しくなっても故郷を離れて暮らし続ける限り、現実に向き合わずにナルシシズムに酔って生きることは可能なのかもしれない。新幹線で焼身自殺した男には遠野という素敵な故郷があった。それをないがしろにしていた結果がこれだというならあまりにも悲しいし、遠野に大変に失礼なことでもある。
つまり、夢が破れたらそれを素直に認めて帰郷するべきなのだ。しらふに帰るためにはそれがいちばんである。それは必ずしも負けではないのだ。実は、故郷というのは懐かしいところではない。故郷とは異郷と比べものにならないくらい厳しいところである。そこは破れた夢に酔っていられる場所ではないからだ。その厳しさを受け入れた者にだけ次なる可能性が開かれる。それが故郷のふところの深さであり優しさである。
だから、帰郷というのは決して「みやこ落ち」ではなくて、それ自体が試練であり新たな可能性への扉である。そのチャンスを与えられたのだと考えることができるならば、つまらない夢が破れるのは悪いことではない。それはそのひとの勇気が問われる局面でもある。つまらない夢から離れて脱皮する勇気である。
もちろん、地方にも弱い人間はたくさんいる。都会をひがんで生きている連中もたくさんいる。けれども、地方の方が、そんな弱い俗物どもと無縁に生きることがたやすいように私は思う。その心地よさと都会のわずらわしさの両方を知ってしまうと、たとえ故郷でなくとも地方で暮らす方が私にはずっと心地よい。
私が初めて就職して東京から高崎に引っ越す時、あるひとから「本当にすごいひとは地方にいるものですよ」と言われたことを私は今でも憶えている。たしかにそのとおりで、初めての土地だった高崎で、私は東京ではお目にかかれなかったすごいひとにたくさん出会うことになった。「高崎で一歩引いて東京を眺める方が世の中がよく見える」と言っていた課長さんもいた。群馬から政治家がたくさん出るのはそんなところにも理由があるのだろうか。
私が今住んでいる生まれ故郷の盛岡もそうかもしれない。あるいは、先日再訪した小笠原の母島で、宿のひとが本土から中継されてくるテレビのニュースを見ていた様子を私は思い出している。それは冷静ではあっても決して冷ややかな視線ではなかった。あの距離感は絶妙だと思う。そんな小笠原のひとの多くは本土から移住してきたひとたちである。
たとえ帰郷したとしても、あるいはずっと故郷で暮らし続けるにしても、そんなふうに故郷に縛られることなく自由に楽しく生きてゆきたい。要するに、帰郷したら頭を冷やしたうえで、以前住んでいた場所を第二の故郷にしてしまうとか、さらに別の場所に第三の故郷を作るとかすればよいのである。それはべつにお金に余裕が無くとも可能なことである。
今は「書を捨てよ、東京(まち)に出よう」という時代ではない。そうではなくて「故郷(くに)に帰ろう、そして本を読もう」というのが正しいだろう。そのうえで、くり返しになるけれど、あちこちにたくさん故郷を作ればこれほど楽しいことはない。
それにしても、事件のあった東海道新幹線のように、あんなにたくさんの人間がのべつまくなしに移動することが本当に必要なのだろうか。移動を控えてのんびり頭を冷やすことも必要ではないのか、と私は思う。