非常識な読書

連休中は、松原隆彦氏という物理学者が書いた宇宙論の本と、近所の図書館から借りてきた筑摩世界文学大系「サド/レチフ」のレチフ(レチフ・ド・ラ・ブルトンヌ)の部分を読み続けていた。
 レチフ・ド・ラ・ブルトンヌという作家はシュルレアリスムの主導者アンドレ・ブルトンとは関係が無くて、サドやラクロとともに「破廉恥三人組」と言われていたらしい十八世紀フランスの作家である。私はこのひとを読むのは初めてである。
 巻末の解説を読むと、レチフという作家は当時としては長い人生の間に、膨大な小説を書いた売れっ子だったらしいけれど、その作品は自分の体験を脚色した「漁色小説」とでも呼ばれるべきもので、ここに収められている「ムッシュー・ニコラ」もそのような作品である。
 これはとにかく長い。それでもここに訳されているのは全体の二割ほどだと言うのだから私の想像を絶する。読み進めてみると、これが徹頭徹尾、女性をかどわかしたり女性にかどわかされる話である。しかし、具体的な情事の描写は不思議なくらい見当たらない。だから、これを読んでいて欲情することは無い。これはポルノグラフィーとは別物だと私は思う。
 サドの小説では、過激な情事の間に哲学や政治や宗教に関する議論が挟まれていて、かえってバランスが取れていると私は思うけれど、レチフのこの作品は見事なほどに一本調子である。それが作者の情熱であるのなら、これほど不気味な文学もそうたくさんは無いのではないか、という気がしてくる。
 つけ加えておけば、どうやらそのことによって、レチフという作家は現代文学の創始者のひとりとして、あるいは十八世紀フランスの風俗を伝える作家として、二十世紀になってから高く評価されているのだそうだ。
 それでも、私は辟易する思いでこの「ムッシュー・ニコラ」の抄訳を読み了えてしまった。どうして読み了えてしまったのかよく分からない。それが古典の力なのだろうか。繰り返しになるけれど、サドの小説のように読んでいてカタルシスが訪れることは無い。その意味では味気ない読書である。ただ、読み進めていると、はたして漁色というのは現実の人生において、その主食になり得るのだろうか、という疑問が湧いてくるのである。
 いくら美化してみたところで漁色なんて結局は同じことの繰り返しで、人生なんか何事につけても繰り返しでしかないのさ、と言われればそれまでだけど、漁色というのはその快楽や陶酔も激しいから、それをやたらに繰り返していると退廃になだれ込むのは避けられないのではないか。それが私の印象である。それを承知のうえでこのような作品を延々と書き続けたのなら、レチフはまさに稀有な作家と言うしかない。退廃に落ち込むことなくこのような作品を量産する才能があったのだろう。実人生における漁色の体験とフィクションの関係を、この作家はどう考えていたのだろうか。
 この本の巻末には、ブランショによるレチフ論が収められていて、これが実に読み応えがある。私はこれを三回読んだ。私の疑問についてのヒントもここに見受けられる。
 私が読んだ範囲では、筒井康隆や野坂昭如の短編に「漁色小説」があったと思う。しかし、そのいずれも主人公はみじめな思いをして話が閉じられていた。そうしなければ読者を納得させるのは難しいのだろう。それに比べると、主人公が破滅も成長もせずに、ひたすら健康的に漁色に励むレチフのこの作品は実に異様である。もしかしたら、江戸文学にこんな作品があるのだろうか。もう少し年を取ったら江戸文学も読んでみたいと私は思っているけれど、とりあえず今は途方に暮れるばかりである。
 平凡な日常に埋没するのはつまらないことだし、そうかと言って過激な快楽を追い回すことに明け暮れるわけにもゆかない。ならば、こういう過激で不気味で、かつ魅力的な小説を読んであれこれ考えるくらいしかとりあえず出来ることは無さそうである。実は、それはとんでもなく楽しいことで、これはやはりフィクションの効用だということになるのだろう。そのおかげで、日常の奥にあるものが少しずつ見えてくるような気がする。やはり、人生には退屈しているひまは無い。面白いことはたくさんあるのである。
 もうひとつ、松原隆彦氏の「宇宙に外側はあるか」と「宇宙はどうして始まったのか」は光文社新書から出ているエッセイで、数式を一切使わずに最先端の宇宙論を分かりやすく解説していて見事である。このひとの文章の明晰さと読みやすさは恐るべきものであって、これに匹敵する文章が書ける作家や詩人が何人いるだろうか、と考えると、本屋にあふれている文芸書など屑ばかりではないか、と思えてきてそれだけでも愉快である。
 この本の内容に言及するのは私の能力をはるかに超えることなのでそれはしない。ただ、最先端の物理学による宇宙論が、東洋思想や古代の神話に限り無く近づいている、という読後感が残る。素粒子論や宇宙論といった極端な世界では、ふだんの常識がまったく通用しない。残念ながら、素人の私にそれを理解することはできないけれど、そんなアナーキーで非常識な真実が私は大好きである。話は飛躍するけれど、平凡に見える日常というやつは物理学から見てもかりそめのものでしかないらしい。真の自由とは恐るべきものであって、それでもそんな迷路を手探りで歩くのは面白い。
 五月の新緑の中で、そんな非常識な読書をして、もちろん日々の仕事をこなしながら私は生き続けている。この平凡にも見える日常に何が見えるのか、何が飛び出してくるのか、季節がしだいに移ってゆくのを私は見ていたい。これが安心なのか不安なのかよく分からないけれど、そんなことはもうどうでもいい。またまた話は飛躍するけれど、この限りある人生もそう捨てたものではないのだろう。見ろよ青い空、白い雲、そのうち何とかなるだろう。結局、らせんを登るようにして、私はいつもそこに行き着いてしまうのである。 


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