サンクチュアリ

中学一年生の男の子が十七、八歳の少年たちに惨殺される痛ましい事件があった。殺された男の子の同級生も周りの大人たちも、彼がろくでなしどもになぶられていることを薄々勘づいていたと言うけれど、結局誰も彼を救うことはできなかった。
 生命にかかわるほどではなかったけれど、私は小学校六年生の時に同級生の男に執拗になぶられた経験があるから、その孤独と恐ろしさを少しは想像することができる。私の右手親指の爪の生え際や右腕には、あのガキから受けた傷跡が今でも残っている。
 悪というものは身近なところに確かに存在する。あの、人生の入り口で受けた不愉快きわまりない経験から私が得た貴重な教訓がそれである。矯正することが絶対に不可能な、病原菌のような悪がこの世には存在する。村上春樹の「ノルウェイの森」にはそんな腐った果物のような悪を仕掛ける美しい少女の話が出てくるけれど、子どもの世界には大人が想像することもできないような退廃が確かに存在する。こざかしいあのガキは、数十年昔の小学校六年生の分際で、ヒットラーの「わが闘争」を愛読していた。あの種類の暗さを押しつけてくる人物に私はその後お目にかかったことは無い。
 そんな病原菌のような悪は周囲にはどうにも手の下しようが無い。私は身をもってそれを知っている。つらさを覚悟のうえで、私自身が強くあろうとしなければ周囲の視線の中ですりつぶされてゆくだけである。それを知っていたのが私の救いだったかもしれない。それにしても、あの恐ろしさと孤独を理解している大人がどれだけいるだろうか。それに比べれば、大人になってからの世間の荒波なんて大したことは無い。
 あの時、私が殺されたり、自殺したり、あるいは復讐したりしなくて済んだのはなぜだったのだろう。運が良かっただけさ、というのがいちばん適切な答えかもしれない。小学校を卒業するまでそれは続いて、その後の中学校生活は私の人生の黄金時代となったし、あのガキは高校受験に失敗してどこか遠くに消えてしまった。悪いことはいつまでも続かない。それもあの経験から得た教訓であったけど、私にそれを可能にさせたのは何だったのだろう。
 養老孟司さんがいじめられた子どもの日記を読んで、そこに人間関係のことしか記されていないことに気がついた、とどこかで書いておられたのを私は思い出している。そこに天気とか、自然とか、人間以外のことがまるで書かれていないのが異様だった、というお話である。
 なるほどあの時の私には人間関係以外の世界があった。周りの大人や肉親の愛情をどこかできちんと受け止めていたのも確かで、それが私をこの世界につなぎとめてくれたことも私はよく分かっているけれど、人間関係以外のものが私を護ってくれたのも確かだった。
 それは養老先生が言うように身近な自然であり、そして本や音楽だったと思う。それが何にも増して身を護ってくれるということを、私は少年時代に体験していたのである。
 それに護られている私が、あのガキにはたまらなく妬ましく思えたのかもしれない。私を標的に選んで執拗に痛めつけた理由はそれかもしれない。しかし、自然や本や音楽はそんなすさまじい逆境を生き抜く力を私に与えてくれたし、それはおそらくあのガキには犯しがたい私のオーラのように見えていたのかもしれない。いくら痛めつけてみたところでそれを突き破る力はあのガキには無かった。せいぜい私の指や腕に傷跡を残すくらいのことしかできなかったわけである。逆に、その後の人生の早い段階であのガキは破滅して消えてしまった。私にかけた呪いが自分に返っていったようなものである。
 ・・・いったい私は何が言いたいのだろう。誰でも子どもであったことがあるのに、多くの大人は子どもの気持ちがまったく理解できない。むしろ、子どもが理解できなくなることこそ大人の資格であるように私には思える。ならば、大人はわけ知り顔で子どもの世界に手を出さないでくれと私は言いたい。子どもの世界はサンクチュアリ、つまり聖域である。今の大人どもはそんなことさえ分からないのだろうか。
 私の幼年時代、近所の空き地で陣取りだったか鬼ごっこだったかをしているところにお母さんたちがやってくると、私たち子どもは「ここは陣地だからお母さんは入らないでよ」と言っていたのを私は今でも憶えている。あれは大人が侵すことができない子どもの聖域だったのだと今の私は思う。あの頃のお母さんたちもそれを最大限に尊重してくれた。それが子どもと大人の正しいつきあい方ではなかったか。
 たとえば「遠野物語」にも、大人が子どもの世界を侵犯しようとしてばちがあたる話がある。子どもたちがお堂の仏像で遊んでいるのをとがめた大人が病気になってしまって、せっかく子どもたちと楽しく遊んでいたのに邪魔するな、と仏様が夢に出て来る話である。
 そして、今回の事件で、被害者の男の子をメディアがさんづけで呼んでいるのも私には不可解である。男の子でも女の子でも、小学校入学前ならちゃんづけ、未成年なら君づけで呼ぶのが本当ではないのだろうか。中学一年生の男の子を、メディアがさんづけで呼ぶということは、大人が彼を子どもとしてまったく尊重していないことを意味するのだと私は思う。それでは彼の居場所がどこにも無くなってしまう。亡くなってしまった子どもに対して、これは非道極まりないことではないのか。
 口では反省しているようなふりをして涙は流すけれど、自分の立っている場所をふり返ることも無い大人ばかりがいる世の中。子どもたちの聖域を尊重することもなく、子どもを金儲けの対象としてしか見ない大人ばかりがいる世の中。子どもが子どもであることが許されず、偽りの夢ばかりが強要される世の中。こんな世の中は地獄でしかないだろう。
 あの男の子に対して、こんな世の中に生きるよりも、もし死後にパラレルワールドがあるのならそこで楽しく生きていてよ、と私は声をかけたくなる。亡くなった子どもにだけ死後の世界があると私は確信している。そんなサンクチュアリにこの世の悪が入りこむ余地は無い。
 繰り返しになるけれど、私はあの冷たさと孤独を今も忘れていない。そのおかげで私は強さを獲得できたのかもしれないけれど、かわりに、まともな大人として生きる価値を認められない人間になってしまったような気がする。それが幸せなことなのか不幸なことなのか、私はずっと迷いながら生き続けている。


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