思い出のはざまから

「気分はもう戦前」という文句が目につくようになった。たかが気分のために戦前になったり戦争になったりしてはたまったものではない。ふざけるのもいいかげんにしろと私は言いたい。「もう戦争しかない」と言いふらしていたのはもう二十年以上前のオウムの連中だったけれど、その後に何が起こったのか今さら私が言うまでもない。結局、馬鹿につける薬は無いと言うしかないだろう。
 何があっても日常は続いてゆく。逆に言えば、戦争とも平和とも、不景気ともバブルとも日常というやつは見事に親和してしまう。この凡庸な現実の、まるで妖怪ぬらりひょんのような得体の知れない強靭さに私は途方にくれている。本当にどうしようもない。
 そんなことを思いながらも、私はこうして何とかひと並みに生き続けている。以前の私だったら今という時代はとても耐えられないくらい苛酷なものだとも思う。うつ病を通りぬけた経験が何かの免疫になっているのかもしれない。幸いなことに、今の私は夜には安眠できるから、それが何よりの力になっているように思う。
 その眠りの間、私はもう何十年も前の少年時代にもどって思い出の世界に遊んでいるような気がする。その頃の夢をみることは無いのだけれど、目が覚める時に、あの頃の世の中の雰囲気までもがかすかによみがえってくることがある。あの頃に流行っていた歌を頭の中で歌っていることもある。ランボーの「地獄の季節」冒頭の言葉を借りれば、あの頃は毎日が饗宴だった、ということになる。
 きっと、誰にでもそんな大切な思い出があるのだと思う。そして、そんな思い出があるからこそ、ひとはその後の人生を生きてゆくことができる。それは、今の世の中がどうあろうと関係の無いことかもしれない。大人として生きるというのはもともと耐え難いほど苛酷なことかもしれない。
 もちろん、私は「昔はよかった」とひたすらなつかしく思い込んでいるわけでもない。あの時代だって耐え難いことはたくさんあった。幼かったせいでそれが分からなかっただけである。眠りからさめて、今さらながらそれに気がつくこともある。だからと言って思い出をおとしめる必要も無い。今の私は、夜は無意識のうちに思い出の世界に遊んで、目覚めている間はこの現実をしたたかに生きてゆく。それだけのことである。夢の世界や思い出の世界に薄汚い現実が入り込む余地は無いし、時が流れてしまっても思い出が遠くなることは無いのが分かったから。
 話を最初にもどすと、もしかしたら、われわれひとりひとりの中に「気分はもう戦前」という文句を受け入れる余地がどこかにあるのかもしれない。薄気味悪いことに、それを歓迎する気持ちさえどこかにあるのかもしれない。
 そう言えば、人間は豊かさの中で破滅の準備をする、と言ったひとがいた。昭和の初めもそうだったと言うし、古くは応仁の乱の直前もそうだったのかもしれない。ずっと後になって歴史を検証してみても、この謎をうまく説明することはできないみたいだ。破滅を避ける手立てはあってもそれを選択できないように歴史が進んでしまう。そして今、世の中が便利で豊かになったせいで、われわれひとりひとりが自分の無力さを痛感させられるようになってしまった。本当は無力ではないのかもしれないけれど、自分は無力だと思っていないと今はうまく生きてゆけないらしい。いったいどうすればよいのだろう。最近は、犯罪者でさえ何かに飼いならされているような印象が強い。
 「気分はもう戦前」という文句が静かにわれわれの中に入りこんできて、これからいったい何が起こるのだろう。その答えはもう誰もがうすうす勘づいているような気もするし、誰にも分からないことのようにも思える。
 ならば、今の世の中はいったいいつまで持つのだろう、と言い換えてみる。政治家が言いつのる成長幻想でお茶をにごすことができなくなる時がいずれやって来る。裸の王様の行進のように、誰もそれを口にしないだけなのだろう。そんな世の中に呼応するように、そう遠くない将来また大地震がやってくるし火山の大噴火もあるかもしれない。
 それでも、かりそめであっても、この豊かで平穏な世の中が続いている間に、いったい私に何ができるのだろう。私はそんなことを考えることが多くなってきた。もちろん、世の中をつなぎとめるために必死の努力を続けているひとがたくさんおられることくらいは私だって承知している。そんな方々に比べるべくもないけれど、こんな私でも質素であれば生きてゆくことは許されるのではないか、私はそう自分に言い聞かせるしかない。
 ・・・穏やかで豊かな眠りと、夢が帰ってゆく思い出があれば、ひとは何があっても暖かく生きてゆくことができるのかもしれない。


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