煙突の写真から

新しい年が明けて、お正月休みが終わって早々、フランスでテロ事件が起きて二〇一五年がいやおう無く始まってしまった。二十世紀はいつのまにか完全に終わってしまっていて、我々はもはやアナーキーな二十一世紀のただなかにいる。もう後には戻れない。気がつけば、神戸の地震や地下鉄サリンから二十年を迎える。
 それにしても、今回のテロ事件、その成り行きのテンポがあまりにも速い。犯人による襲撃と殺戮、逃亡、立てこもり、犯人の射殺、フランス全土での大規模かつ静粛な抗議デモ、標的になった新聞の再刊、それにまつわる穏健なイスラムのひとびとの抗議、ベルギーでの新たなテロ、これだけの事件がわずか十日くらいの間に起こっている。それについて我々は考えるひまも無い。今回の事件が大戦争のきっかけになるとは私は思わないけれど、もしかしたら、百年前の第一次世界大戦の発端もこんなふうに意外な出来事が次々に起こる緊迫した展開だったのかもしれない。
 私の正直な感想は、フランス人にも馬鹿が多いらしい、ということである。事件直後のデモが静粛に大規模に行われて、そこにふだんは対立している各国の首脳が参加していたのは感動的だったけれど、その後に再刊された例の新聞にはまたしてもイスラムのひとびとを侮辱する絵が載せられている。これを表現の自由、と言い張るあたりに連中の馬鹿さ加減がよく現れている。
 表現の自由はしばしば他者を致命的に傷つける。そんなこともわきまえていない奴があちらにも少なからずいるらしい。この新聞の再刊号は大変な売れ行きを記録したとのことで、要するに表現の自由を笠に着て、風刺を笠に着て、大いに儲けよう、それが本当のところなのだろう。日本語には、こんな下劣なジャーナリズムを形容する「赤新聞」という言葉がある。表現の自由に泥を塗り、風刺に泥を塗っているのはいったいどちらなのだろうか。それは権力におもねるのと同じだろう。馬鹿につける薬は無い、というのは世界共通のようである。馬鹿の相手をするのはおよしよ、というところだろうか。
 私がフランスを旅した時、私に親切にしてくれたのはどういうわけかイスラムのひとが多かったので私はこんなことを書くわけである。要するに、結局は優しい人間が生き延びる。宗教を、あるいは自由をたてにして物理的あるいは精神的な暴力をふるう者はほろびる。サドやジュネやブランショが生きていたら何と言うだろうか。
 前にも書いたことがあるけれど、ちくま学芸文庫から出ていたブランショの「明かしえぬ共同体」の表紙には一九六〇年代にパリで行われたデモの写真が使われている。パリの町を埋め尽くすひとびとを上空から写した、私の大好きな写真である。この時代に撮られたこんな写真を思い出していたひとは、今回のデモに参加したひとのなかにもたくさんいたのだろうと私は思う。もしかしたら、その記憶があの静粛なデモを支えていたのかもしれない。もしそうならば、それも写真の力なのだろう。
 客観的な記録、という硬直した考えの持ち主が撮った写真は結局のところそんな生命を持つことができない。それは歴史や物語をつむぎ出すことはできないだろう。やむにやまれぬ愛情や衝動に突き動かされて撮ったさりげない写真、それこそが記録としての力を持つはずだ。僭越であるけれど、私の写真もそうありたい。
 話は変わるけれど、年明け早々、私のなじみの銭湯が閉店することになってしまって、そのささやかなお礼に銭湯の煙突を撮った写真を番台のおばさんにプレゼントしたらとても喜んでもらえた。いずれ壊してしまう建物なので地元の新聞社も取材に来たのだけれど、煙突の写真は撮ってくれなかったのだそうだ。
 なじみの銭湯というだけでなく、古ぼけてはいても何となくデ・キリコの絵に出て来るような煙突だったので私は折に触れて写していたのである。そんな写真がこんなふうに意外な形で記録となってひとに喜んでもらえる。これが写真家の幸せなのだと私は思い知る。新聞に載った、今から六十年以上前の、この銭湯が開店した折の記念写真を眺めながら私はそんな感慨にふけっている。


[ BACK TO MENU ]