沈黙の声
ふだんは聞こえない声がわれわれの周りにはあふれている。それを沈黙というのだけれど、ノイズの名にも値しない人工的な振動ばかりが流されているので、沈黙に身をゆだねることさえ今は難しい。
写真展の間は、そんな沈黙につつまれるひさしぶりの機会だったと私は思っている。会場に好きな音楽を流していたのは沈黙を意識するためである。見に来て下さった方々と深い対話をかわして、あるいは、来て下さった方々に何度も同じ説明をしてゆくと、写真や自分に対する考えが定まってゆくのが分かる。誰も来ない間は自分の写真を眺める。すると、写真が語るのは実は沈黙に他ならないことが分かる。それが、今回の個展の最大の収穫だったと思う。
私が会場にいない間に来て下さる方もたくさんおられる。芳名帳に名前を書いて下さる方はほんのわずかに過ぎないし、感想ノートに記入して下さったのはわずかにひとりである。しかし、実はその後ろには豊かな沈黙が控えている。それは素晴らしいことであるし恐ろしいことでもある。その沈黙を私はきちんと受け止めることができるだろうか。それが私のこれからの課題になる。
もちろん、ひとそれぞれ思い描く沈黙の質は異なるのだろうと思う。でも、そんな沈黙が発する声を聞き取れない奴が多すぎやしないか、というのも私の正直な印象である。
沈黙の声を少しでも聴くことができるのならば、あんなふうに、パリの町中でテロを起こすことなどできないはずだし、あるいは、これほどまでにお金に惑わされることもないだろう。そんな連中ばかりが世の中を動かしているのではあるまいか。私はそう思ってみたくなる。結局、優秀ではあるけれど、自分に落とし穴があることを自覚していない奴らが、情報だけを頼りに忙しく駆けずり回っている。情報がこの世のすべてではない、と言ってみたところで彼らには分からないだろう。沈黙の声が語るはてしない豊かさに気づいてしまうと浮き世が小さく見えるのは確かである。
それでも、このまま我々が突き進んでゆけば、十年後二十年後には東京でもあんな凄惨な人殺しが起こるだろうし、お金の価値がなし崩しになればどうなるか、それはギリシャのニュースを見れば分かる。あれがひとごとでない保証などどこにも無い。どうしてみんな何事も対岸の火事として見過ごしていられるのだろう。それが私にはまったく分からない。それとも、仕方が無いさとみんな悟りきっているのだろうか。迷っているのは私だけなのだろうか。私には本当に分からない。
そんな非常事態宣言が出るような事件が起こった時、現場の方々は最善を尽くして我々を助けて下さるけれど、おそらく国家は我々を見捨てるはずである。それは、原子力発電所の避難計画の不備を見れば分かる。
言いたくないことだけれど、もしかしたら、政治家は戦争ごっこをしたくて仕方が無いのだろうか。用も無いのに総理大臣が戦闘機の操縦席に座って写真を撮らせたりしている。この前の震災では、当時の総理大臣が用も無いのにヘリコプターに乗って事故を起こした原子力発電所を見に来ていた。非常事態の現場に無責任に身を置いてみたいのだろうか。たかが選挙で大騒ぎするのが政治家ならば、それは仕方の無いことなのだろうか。
それにしても、組織から離れた経験の無い人間には、こんな簡単なことが分からないみたいだ。沈黙の豊かな声を聴くために、少しばかり危ない橋を渡ってみたい。すると、笑いが止まらなくなるような愉快な景色が現れてくる。
結局、沈黙は無意識に通じている。そして、無意識は過去も未来も飛び越えて、この宇宙のすべてを知っている。なぜなら、人間の想像力を超えた歴史は今まで何ひとつとして無かったし、優れた科学者が生み出した理論はこの宇宙のあり方を正確に描くことができる。我々はすべてを知っている。ただ思い出せないだけである。写真がそのことを私に教えてくれたのである。