理念

五年後に東京で開かれるというオリンピックの準備がいろいろともめているらしい。少し前に、女性メダリストが泣いて抗議しているのをテレビで見た時に私のオリンピックへの暖かい気持ちは消えてしまった。開催が決まった時は皆で泣いて喜んでいたのに、それから二年も経たないうちに関係者が泣いて抗議するようではどうしようもない。
 その後に発覚したもうひとつの騒動を何と呼べばよいのだろう。エンブレムとは何なのか、著名なデザイナーが考案したというそれが取り下げられてしまった。他人の作品の盗用である疑惑が否定できなくなってしまったらしい。
 私にはその経緯がよく理解できない。とりあえず辞書をひいてみると、エンブレムという言葉には象徴とか記章という意味がある。オリンピックの理念を象徴する記章、というほどの意味なのだろうか。エンブレムという象徴や記章を作ろうにも、そのもとになる理念が無ければそれは空疎なものになるしかない。それを使う宣伝用のポスターにせよ関連商品にせよ、間の抜けたものになるしかない。そんなことくらい、少し考えれば分かることである。
 では理念とは何だろうか。また辞書をひいてみると「理性で考えられる最高の概念」とあるが、これはこの場合は不適切だろう。次にある「それがどうあるべきかという根本的な考え方」というのがこの場合の「理念」だろう。
 近代オリンピックを実現させたクーベルタンだったか、たしか、このひとは「もし私が百年後に生まれたらオリンピックをやめさせる方にまわるだろう」というような言葉を残していたと私はどこかで聞いたような気がする。いずれにせよ、百年前は今よりもずっと純粋で強い理念がそこに存在していたわけである。 理念というのは理想論のように聞こえやすいからないがしろにされやすいけれど、純粋で強い理念が無ければ何事も始まらない。それを忘れている連中が多すぎるように私は思う。
 もちろん、本当の理念とは分かりやすい言葉や記号で表すのは大変に困難なものである。理念を表現するために、哲学者が身を削るような努力をしていることを思えばそれが分かる。
 では、理念というものがそんなに難解なものかというと必ずしもそうではなくて、それはそこらに他愛なくただよっている気配みたいなものではないか、という考え方もできるだろう。この場合の理念とはそんなものではないかという気がする。
 そんな、他愛ない気配のような、しかし力強く燃える炎のような理念が今の世の中には見当たらない。だからあんなダサいエンブレムなるものが登場しては疑惑を投げつけられて退場する。そして誰もその責任を取らない。
 前の東京オリンピックのことは私は知らないけれど、札幌オリンピックは私の幼年時代と重なっていたので、あの時の暖かい理念を私は記憶している。それが欠けた今の世の中にいったい何ができるのだろう。
 こんな投げやりな世の中に、暖かい炎のような理念がもどってくるまでどのくらいの時間がかかるのだろう、と私は思う。金儲けの計画よりも、そんな理念の方がはるかに力を持つということに気づいているひとがどれだけいるだろうか。
 それでも、これはそんなに悲しむべきことではなくて、そんな暖かい炎のような理念は今、少なくないひとの気持ちの奥深くに分け与えられている、と考えればよいのかもしれない。そんな理念を秘めたひとが世の中の表層に現れることはあまり無い。それは道ばたに咲く花のように現れるだろう。
良いニュースは小さな声で語られる。という言葉を私は思い出している。村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」に出てくる言葉だったと思う。悪いニュースにさまたげられることなく良いニュースを聴き取ること。それこそが暖かくて強靭な理念の一端ではないかという気がする。 


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