夢の記録、ふたたび

私が住んでいる岩手県の地元紙に、震災の後にがれきの中から発見された持ち主不明の写真を掲載する欄がある。震災の折に家庭のアルバムから流出してしまったものの、ボランティアの方々の必死の努力によって回収され洗浄・復元された家庭や職場の記念写真の数々である。
 この写真に心当たりのある方はご連絡下さい、というただし書きが記されたこのコーナーは毎日休み無く続いている。最近の写真もあれば、軍服姿で写っているかなり古い写真もある。なかでも、幼い子どもを撮った写真がいちばん多いような気がする。個人のプライバシーに触れるような写真が掲載されていないのが、このプロジェクトにこめられた暖かい気配りなのだろう。
 この、持ち主がいまだに分からない写真の群れを毎日見続けていると、これが写真なのだ、これが写真の力なのだ、と思わせてくれるひたむきな愛情が伝わってくる。当事者以外のひとの目に触れるはずの無かったたくさんの写真が、多くのひとびとの厚意によってこのような場に現れると、我々はふだん意識することの無い写真の力を思い知らされる。特に写真に興味の無いひともそれを感じているのだと私は思う。だからこそこのプロジェクトは続いているのだろう。
 この、おびただしい写真の群れはリアルな夢を私に見せつけてくれる。これはまさに夢の記録である。それを前にして私にもう何も言うことは無くなる。
 写真が本来このようなものであるのなら、もしかしたら写真家と呼ばれる人種の営みは虚妄ではないのか。それが言い過ぎであるのなら邪道ではないのか。私にはそんな思いが抜き難くある。写真はおそろしくふところの深いメディアだから、写真で「表現」や「芸術」を気取ることはもちろん可能だし、それは甘美な誘惑であるのだけれど、写真の本質がそこには無いらしいことをわきまえていたい。写真は第二芸術だ、という丸谷才一の言葉を私は忘れずにいる。
 だから、記念写真を超えて写真を撮り続ける私のような人間は、含羞ととまどいを忘れてはいけないのだと思う。そして、せめてシャッターを押す時くらいはすべてを忘れて無心でいること。それができているのなら、こうして写真を撮り続けることも許されるのではないか。私は自分にそう納得させるしかない。
 こうして新聞紙上で毎日見続けている無名の写真の数々、よく見てみればそれは決して技術的に劣っているものではないことが分かる。いとおしい思いが美しい写真を生み出すことを私は思い知らされる。そんな写真の群れが伝えてくるリアルで濃密な夢の気配、芸術として写真は二流であるけれど、このリアリティは写真でしか表すことができないだろう。いとおしさの表現であり、いとおしさの記録であり、遊びであり、メッセージであり、なんだかよく分からない謎であり・・・ それが写真の持つ強大な力だろう。時間も空間も因果律も越えて、撮影者がこの世界の「普遍」に触れること。それが写真の底知れない魅力であり恐ろしさなのだと言う気がする。
 だからこそ、たかが写真、という気持ちを忘れずに私は写真を大切にして撮り続けてゆきたい。たかが写真、と思っていないと写真家は不幸になってしまうし良い写真も撮れないのではないかと私は思う。もしかしたら、あまりのめりこみすぎないこと、それが写真のコツなのだろうか。あるいは、あまり厳密になりすぎないこと、それも写真のコツなのだろうか。
 あまりにも一途に追いかけてゆくと、きまぐれな猫のように写真の神様は逃げてゆくみたいだ。そのうえ写真家が不幸になってしまっては元も子もない。それが写真の怖さだろう。まあ、気楽にしぶとく撮り続けよう、それが私の新年の抱負である。


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