お酒、料理、写真、忘却

あまり熱心に読んだわけではないのだけれど、私の手許に岩波文庫から出ているアラブの詩人アブー・ヌワースの「アラブ飲酒詩選」という本がある。このひとは、飲酒が禁じられていたはずの中世イスラム世界にあって、酒色の快楽を堂々と歌った著名な詩人なのだそうだ。この本には、飲酒詩、恋愛詩、称讃詩、中傷詩、哀悼詩、たしなめの詩、禁欲詩といった具合に分けられてこのひとの詩が収められている。量としては飲酒詩がいちばん多いけれど、このひとはいろんな詩を作った多彩な詩人らしい。忘れた頃に私はこの本を取り出して読む。
 中世イスラム世界がどんな世の中だったのか、私にはまったく分からない。それでも、世知辛い二十一世紀初頭の日本にもつかの間の夏休みがやって来ると、ここに収められている詩がふだんよりもずっと親しく味わえるような気がしてくる。「勤勉に暮らすことはやめて、怠け給え。」というアブー・ヌワースの詩句を味わうためにも、私たちにはささやかな休息が必要なのである。要するに、マジメもほどほどに、ということである。
 ただ、休暇はともかくとして、私自身は二十代を過ぎてからはあまりお酒が美味しいとは思えなくなってしまった。それは単に旨い酒を知らないだけなのかもしれないけれど、お金や手間をかけてまで旨い酒を手に入れようとは思わないし、お酒が美味しかった頃の記憶を思い出したいとも思わない。それでも、酒なら何でもいい、あるいは料理なんて食えれば何でもいいんだよ、と考えているわけではもちろんない。
 料理を作るのは好きだけれど、美食に走るつもりも私にはまったく無い。新鮮な素材を使った簡素な料理を作ったり食べたりできればそれで私は充分に幸せである。お酒についても同じことだ。
 話がどんどんずれてゆくけれど、暗室の中でモノクロームのプリントをしていると、私は料理の味付けをしているのと同じ気持ちになることがある。ここを黒く焼こうか明るく焼こうかと印画紙の前で思案するのは、料理をしている時に、もう少し調味料を入れようかどうしようかと迷うのとまったく同じなのである。新鮮な素材を生かして、さっぱりしたコクと薄めの味付け、それが美味しくて飽きなくて他人にも好まれる料理のコツだと私は思うけれど、これは実は写真においてもそのまま通用する鉄則だという気がする。
 そんなわけで、今の私は仕事でこわばった心身を解くために、毎晩食前に少量の美味しい焼酎を口にするだけである。職場の飲み会でそれを取り返そうとして大酒を飲むことも無い(はずである)。いろんな意味で心底美味しいお酒なんか一年に一回、いや数年に一回飲めれば充分だと私は思っている。学生の頃は人事不省になるまで飲んだこともあったけれど、今の私は理由はどうあれ深酒をするつもりになれない。健全と言えば健全な傾向である。
 お酒に限らず、仕事や写真も含めて、依存症や中毒に近い状態になるのが何事につけ私は嫌いなのだ。そんなふうに思えるようになったのも歳を取ってきたことの功徳なのだろう。不思議なことに、そう思えるようになると、この、酒色の快楽を歌ったアブー・ヌワースの詩がかえって面白く読めるようになる。そして、仕事にせよ写真にせよお酒にせよ、私なりにより深く味わえるような気もしてくる。楽しいことが増えるし、抑圧が減るから中毒や酩酊におちいる必要は無くなる。
 よく考えてみると、本当に酒色の快楽におぼれるだけのひとならば、それをわざわざ詩に書いたりはしないはずである。しらふにもどる余裕が無ければ良い詩なんか書けるはずはない。ならば、詩というものは実はすべて韜晦というか虚構なのかもしれない。韜晦や虚構を語る快楽はすべてに勝るのかもしれない。酒色の快楽を賛美したアブー・ヌワースという詩人は、もしかしたら大変に強靭で理知的なひとだったのかもしれない。
 ところで、この詩集の註にどういうわけか藤原定家が「明月記」で述べたという「紅旗征戎吾事ニ非ズ(こうきせいじゅうわがことにあらず)」という一節が出てくる。戦争なんか俺の知ったことじゃない、という意味だと思うけれど、この註が付された詩は「アラブの騎士」と題されている。戦いなんか俺の知ったことじゃないしそれが始まれば私は逃げるばかりだけれど、生(き)の酒を口にして美女と交わる時に私はアラブの騎士であることが知られるだろう、という意味の詩句が並んでいる。
 この詩の「戦い」はもちろんそのままでもよいけれど、今に置き換えるならば「過労」とでもしておこうか。あるいは「世間」とでもしておこうか。だらしないふりをして、弱いふりをして、したたかに、野暮にならずに生き続ける覚悟、それを私はここから読み取りたい。いつの時代にあっても、そんなふうに楽しく厳しくだらしなく生きることは可能なのだろう。それが私の希望である。
 ならば、前言をひるがえして、私もたまには旨いお酒をなめながら、不敬かもしれないけれど「犀の角のようにただ独り歩め」というブッダの言葉を繰り返し読んでみるのもいいかもしれない。
 結局、お酒はともかくとして、休息が無ければ忘れるべきことを忘れられない。忘却とは記憶を消去することではなくて、無意識の海にそれを沈めてしまうことだと言うけれど、それがうまくできなかった今までの私は、たしかに他人には無い弱さを抱えていたと思う。酒におぼれなかっただけでも幸いと言うべきか。
 そして、正しく忘れることがより強く生きることにつながるのなら、写真は忘却と深い関わりがあると私は思う。
 写真は記録ではなくて記憶ではないか、と言ったのは森山大道さんだけれど、この名言を、写真は忘却の仕組みと深い関わりがある、と言い換えることもできるはずだ。つまり、正しく忘れるために写真を撮り続ける。これは甘美な誘惑と言うしかない。私はまだうまく説明できないけれど、誰にも教えてやんないもんねこの楽しさ、という気がしないでも無い。


[ BACK TO MENU ]