春の陽射しのもとで

この四月一日から消費税が五パーセントから八パーセントに上げられた。四月一日というのは言うまでもなくエイプリル・フールの日なのだが、最近は愉快なエイプリル・フールの報道を聞かない。もしかしたら、今回の増税は、もはやたちの悪い冗談と思うしかないのだろうか。増税と同時に政府がお馬鹿な冗談ニュースを流したりできるのならこの国はまだ見込みがあると私は思うけれど、気のきいた冗談のひとつも言えないのが日本の悲しさである。政府ではないけれど、確か三十年以上むかし、どこかの遊園地が四月一日に可笑しな新聞広告を出して話題になったのを私は憶えている。あんな愉快な冗談を聞かなくなって久しい。要するに、マジメも休み休み言え、あるいは、いつもマジメでいればよいというほど世の中は甘くない、ということである。
 それにしても、消費税を上げたところで国の財政が改善される見込みは無いし、集めた税金が適切に使われる保障はまったく無い。経済にうとい私にはよく分からないけれど、これはまさにデモンストレーションのひとつではないのか。
 税金が上がって、その影響が今すぐ出ることは無いのだろうけれど、半年後、一年後の世の中がどうなっているのか、こんなに楽観していてよいのだろうかと私は思う。数年前のように、年を越せずに寒空のもと路頭に迷うひとがまたたくさん出てしまうのではないだろうか。
 ただ、決して楽な経営をしているわけではないなじみのお店で「消費税を客から取るくらいならこんな店は閉めてやる」という言葉を私は何度も聞いた。そんなひとたちが世の中を支えているのだと私は思い知る。その厳しい覚悟と粋なはからいを私は忘れたくない。
 そして、増税前、テレビは駆け込みの買い物のことばかり報道していたけれど、私が行っているもうひとつの店のおやじに言わせると、増税前からすでに客足は遠のいている、とのことである。これだけ世の中が便利になってマスコミや電子メディアが発達しても、そんなきめ細かい事実はあまり伝えられることが無い。そのことも私は忘れずにいようと思う。
 ただし、私も貧乏人のひとりにすぎないのだから、増税前の買い出しに歩いたのも確かである。LPプレーヤーとかめがねとか、春物の衣類やらホットケーキの素やらシャンプーに石鹸、そしてフィルムに印画紙に現像液といった近々使うことが確実なものをいろいろ買い込んでしまった。だからあまりえらそうなことは言えない。
 結局、世の中の大多数の人間はこんなふうに生きてゆくのだろう。少し後ろめたい気持ちで増税前の買い出しに励んで、ちょっと買い過ぎてしまうのもなかなか楽しかった。これが生活というものなのだろう。流されるところは流されて、それでも醒めた目を忘れずにしたたかに生きてゆくのである。
それにしても、政府や政治家、あるいは官僚がこんなに尊敬されていないのは日本だけなのだろうか。俺が税金を払ってやらないと世の中が回らなくなる、そんなふうに考えているひとがまるで見当たらない。私を含めて、貧乏人も金持ちも、税金が上がる前に駆け込みで買い物をしたり、逆に買い控えたりする。そんなひとばかりが世の中にあふれている。これは、税金を集めて使う立場にある人が国民から信用も信頼もされていないことの何よりの証拠になるのではないか。そして、そのわりには国民は政治に無関心で権威に従順なのである。どうしてなのだろうか。
 これこそが乱世なのかもしれない。そんな、平穏で快適で明るい乱世にあって、そのうわっつらを信じきっている連中が私には理解できない。何があっても自分の生活だけは保障されている、彼らは本気でそれを信じているみたいだ。そんなものはいつ崩れ去ってもおかしくないものなのに、いい年をした大人がそこから目をそむけている。私にはそう見える。
 ただし、身分の安定というのはそれ以外のすべてのものを犠牲にする。安定は倦怠を呼び、倦怠は人生をむしばむ。彼らはそれに気づいていないのかそれとも見て見ぬふりをしているのか、私にはよく分からない。
 ずいぶん努力はしてみたのだけれど、私はそんなふうには生きられない。自由に生きてゆくしか私は仕方が無い。これは自慢して言っているわけではない。もちろん、自由に生きるというのは決して本人の意思だけでできるわけではなくて、周囲のひとびとの骨折りのおかげで可能になることである。この男には自由に生きてほしい、そんな周囲のひとたちの厚意、これこそが私の運命なのだと思う。それを裏切らないように誠実に生きてゆくしかない。自由にともなう不安なんてものは、せいぜい刺身のわさび程度のものなのだ。そう思い込んでしたたかに生きてゆきたい。時間をかけて心身の病を乗り越えてしまうとそれがよく分かる。まあ、あいつはもう仕方が無い、と周囲があきらめているだけなのかもしれないけれど。
 だから、私はもう何も恐れまい。世の中がいかに悪くなろうとも、与えられた仕事を誠実にこなして生き続けて、もしそれでも食えなくなったら生活保護でももらって、それでも生きてゆけなくなったとしたら、ひとりで飢え死にしてしまおうと私は思う。そこまで覚悟を決めれば怖いものは本当に無くなる。
 ぜいたくな暮らしをして倦怠のあげく心身を病んで長い間苦しんで死んでゆく。あるいは、健康なまま水を飲んで飢え死にする。いったいどちらがより辛いのだろう。老衰で死ぬ以外に楽な死に方は無い、というのは死の鉄則であるらしいけれど、今のうちにそこまで想像しておくと後が楽になるような気がする。飢え死にでなくとも、先年亡くなった桜井センリのように、綺麗に整頓した質素な部屋で、ひとりで発作を起こして亡くなるというのはなかなか悪くない死に方であるように思えるのだ。
 ・・・村上春樹の長編に出てくる「羊男」が「戦争はいつでも必ずある」というようなことを言っていた。平穏に見える世の中ではあるけれど、戦争はもう始まっている。イラクから帰ってきた自衛隊員の二十名以上が自殺している、というニュースがあった。明るい春の陽射しのもと、心身をほぐして歩きながら、いったい私は何を見ているのだろうか。


[ BACK TO MENU ]