モン・クール・エ・ルージュ
キース・ジャレットが一九八一年にライヴで録音したソロアルバム「コンサーツ」の完全盤がようやくCDになった。このアルバムはオーストリアとドイツの都市、ブレゲンツとミュンヘンでの演奏を収めている。しかし、今まで出ていたCDにはどういうわけかブレゲンツでの演奏しか収められていなかった。むかし発売された完全盤のLPはいくら探しても入手不可能で、その、ずっと欠落していたミュンヘンでの演奏は行きつけのジャズ喫茶でいちどだけ聴かせてもらったことがある。
キース・ジャレットのソロコンサートのほとんどは、原曲の無い完全な即興演奏なのだけれど、ここに聴かれるミュンヘンでのライヴには、彼が映画音楽として作曲したという「モン・クール・エ・ルージュ」というバラードが収められている。これが筆舌に尽くしがたいほど素晴らしいのだ。他のピアニストがこの曲を演奏したらしい、という話を聞いたことはあるけれど、私の知る限り、この曲の録音はこれ以外には存在しないはずである。
それは、たとえばマイルス・デイヴィスの名盤「カインド・オブ・ブルー」に含まれている曲で、「ソー・ホワット」や「オール・ブルース」にはマイルス本人のものを含めて再演がたくさんあって、その中にはオリジナルに並ぶほどの名演も決して少なくはない。しかし、「フレディ・フリーローダー」や「フラメンコ・スケッチ」にはマイルス本人の再演がまったく無くて、他のミュージシャンの演奏にも素晴らしいものがまるで見当たらない。この二曲はこれ以外のテンポやフォーマットではあり得ないぎりぎりのところで成り立っているからだ、という評を私は読んだことがある。そんな曲こそが麻薬のように聴き手の耳にこびりついて離れなくなる。そして、何度聴いてもまるで初めて聴くような新鮮さを失わない。「モン・クール・エ・ルージュ」もそのへんの事情に似ているような気がする。
この「コンサーツ」というアルバムにはもう一曲「ハートランド」というバラードが収められていて、これも私は大好きなのだけれど、この曲はブレゲンツとミュンヘンのコンサートで一回ずつ、合計二回演奏されている。その印象はかなり異なっていて、これはキース・ジャレットにとっても演奏するのが楽しかった名曲なのだろうと
私は思う。これは、なつかしさと憧れをかきたてられる名曲である。
しかし、たったいちどの録音しか無い「モン・クール・エ・ルージュ」、これ以外のテンポもフォーマットも考えられない、厳しくもひたすら美しい奇跡のようなこの音楽がいったい何を私に伝えてくるのか、それが私にはよく分からない。分からないからこそ私は毎晩この曲を聴き続けることになる。そして、何度聴いてもそのメロディを記憶することが私にはできない。親しみやすいメロディを持つ「ハートランド」とはそこが違うのだろうか。音楽を研究したことが無い私が言うのは僭越ではあるけれど、「モン・クール・エ・ルージュ」は音楽的に極めて高度な曲であるらしい。
以前、私はわけが分からないままに武満徹の研究書を読んでみたことがあって、それは楽譜も読めない私にはまさに猫に小判だったのだが、その中にひとつだけ、今も忘れられない武満徹の言葉を見出したのを憶えている。「結局、音楽というものは悲しみを伝えるものではないのか」たしかそんな言葉だったと思う。それは何だかとても痛ましくて、武満徹というひとが長生きできなかった理由がこんなところにかいま見えるような気がする。ただ、音楽が伝えてくる悲しみというものには私ごときの想像を超える深みがあるらしい、ということは私にもうすうす感じ取れる。
そんな奥深い悲しみというものは、必ずしも重く悲しい演奏の中にだけあるものではないだろう。それは、悲しみという呼び名さえ不適切かもしれない。なつかしさや陽気さとさえそれは通じている。「モン・クール・エ・ルージュ」には、そんな本当の悲しみが聴こえているのだと私は思う。
それは、超一流の音楽家にだけ表現できるものなのだろう。私の手許には、ほとんど読んでいない武満徹の対談集があって、そこには彼とキース・ジャレットの対談も収められている。その断片を私は二十代の頃、別の本で少し読んだことがあった。それは武満徹の音楽もろくに聴いたことが無かったくせに、私を奥深くから揺さぶったのである。
私は今、新書で出ている兵頭裕己著「琵琶法師」という本を読み始めている。この本には琵琶法師の演奏を収めたDVDが付録についている。本を読み終わってから見ようと思って楽しみにしているのだけれど、本文を読み進めるにつれて琵琶法師の芸の凄みが少しずつ明かされてゆく。琵琶法師について、「語り手の「我」という主語が不在である」という恐ろしい文がそこに登場する。
そして、キース・ジャレットも武満徹も、楽譜に書かれる純音だけで作られた音楽に深みは無い、というようなことを繰り返し語っている。それを超えて、すべてを包み込む音楽を生み出すために、超一流の音楽家はまさに身を削る努力を続ける。琵琶法師が音楽と関係の無いように見える厳しい修行をするのはそのためなのだろう。武満徹の対談集には、辻邦生のお父さんだという琵琶の名人との対談も収められていて、そこにもそんな恐ろしいことが語られている。結局、それをわきまえた名人たちが生み出す音楽だけが奥深い悲しみを伝える。そこには明るさや陽気さも何の矛盾も無く生き生きと共存している。
今の音楽が、ジャズもクラシックもポップスも演歌も、皆とても上手いけれど信じられないくらいつまらないのは、それを忘れているからなのだろうと私は思う。純音以外の音を豊かに響かせること。これはおそらくマニュアル化された練習ばかりしていては絶対に不可能なことなのではないか。薄っぺらな音に慣れてしまったせいで、音楽の聴き手もそれを忘れているのかもしれない。世界は今聞こえているよりも、今見えているよりもずっと豊かで厳しいものなんだ、それを我々は忘れているんだ。誰かが私の耳元でそうささやいている。
このささやきを耳にして、奥深い悲しみをかいま見てしまったらもう後戻りはできない。それを裏切らないように生きてゆこうと努力するしかないのである。その、厳しい快楽の迷路をたどるために、また「モン・クール・エ・ルージュ」を聴いてから私は眠りに就こうと思う。そして、夜が明ければいつもどおり私はにこやかに生き続ける。孤独は孤独ではなくて、宇宙との連帯の証しではないのか。そう思えば生きることはそれほど辛いことではなくなるような気がする。