羊の群れ

中東で勢力を拡大しているというイスラム過激派に加わろうとした大学生が逮捕された、というニュースがあった。これに続こうとする日本人は増えるだろう、という意見もあった。  やはり、と言うか案の定、と言うか、いつの世の中でもそんな連中は絶えることが無いんだなあ、というのが私の感想である。
 三十年近く前のオウムの連中と同じことで、時代が変わった分だけその規模が海を越えて世界中に拡大した、ということなのだろう。それとも、前にも書いたことがあるけれど、今や世の中全体がそんな団体と同じになってしまって逃げ場を探すのが極めて難しい、ということなのだろうか。
 それはさておくとして、オウムに限らず、あの頃はそんな怪しげな団体がいくつか活動を始めていた。それをカルトと言うのだろうけど、オウムが一連の凶悪事件を起こす以前、そんな団体に引き寄せられていたひとを私は身近に見ていたことがあった。そんな連中はあの頃は決してめずらしくなかったと思う。
 ただ、彼らには鼻持ちならない独特の「臭い」がある。私は理屈をこねる以前に生理的にそれを許すことができないので、今思えばそれを見ていて必要以上に不愉快で奇妙な思いをした記憶がある。何十年という時間を経て、私はそれをようやく思い起こすことができる。
 連中は決して馬鹿ではないし悪いことを考えているのではないけれど、どうしようもないセンスの悪さと鈍感さを兼ね備えている。そして、どこかで開き直っていてそれを恥じることが無い。たやすく孤独に負けてしまって自分で考えて生きてゆくことができない。優しいように見えるけれど他人のことを考える余裕が無い。自分たちに賛同しない奴は無条件に悪だと思い込む頭の悪さがある。結局、そんな弱い羊たちが群れるととんでもない暴力を引き起こすことになる。幸いなことに、私が見ていたひとはそんな破局の前に連中と縁を切っていたはずである。
 それにしても、あんなに幼稚でお粗末な仕掛けにあれほどたくさんの連中が引き寄せられてゆくのが私にはどうしても理解できなかった。これは人間という動物のどうしようもない欠陥なのだろうか。であれば、時代が変わるたびにそんな団体は繰り返し現れて、頭の弱い奴らを集めてゆくことになる。
 世の中にこんなにたくさんうじゃうじゃと人間があふれていると、それも仕方の無いことなのだろうか。カルトに限らず何か大きな事件が起きると、やれマスコミが悪いだの教育が悪いだのと言って世間のあら探しを始める奴がたくさんいるけれど、まずはご自分のお足元をご覧になれば、と私は思う。そんな奴はカルトに引き寄せられてゆく弱い羊たちの同類であって、でも、そんな悪口を垂れ流しているともしかしたらお金が入ってくるのだろうか。私にはよく分からない。物書きなんて政治家の次にくだらない仕事だ、という名言を私は思い出しておくことにしたい。
 政治が悪いと言ったってそれを選んでいるのは我々自身であるし、今の世の中なら何事であれ多少の犠牲を払えば何かしら抜け道を見つけることはできる。お金が無くとも楽しく生きるための努力を続けることはできるし、努力が嫌いならば、すべてを投げ出してひきこもってしまうという手もある。弱い羊の群れに加わる必要はどこにも無い。
 私は脳天気でスーダラな人間なので、自由や孤独を持て余して弱い羊に転落してしまうほど人生って重いものなの? と言ってみたくなるのだ。どうせ最初からこの世は不完全なのだから、イデアは自分の頭の中に求めるべきであって外界に求めるべきではない。もちろん、お金がそんな弱さを解決するというものでもない。「犀の角のようにただひとり歩め」というブッダの言葉がここで必要になる。だからこそ、それを知り抜いたうえで世の中のために働くひとこそが尊敬に値するのだろう。
 傷つくことを何よりも恐れ、ひとの温もりを知らず、自然の美しさも知らず、悲しみも孤独も知らない。そんな不幸な人間が世間にはあふれているのだろうか。いったい何が楽しくて生きているんだろう。私にはよく分からない。
 結局、弱い羊の群れというのはどこの国にもいつの時代にも現れるものなのかもしれない。しかし、その対極にいなくてはならない真のエリートは今、どこにいるのだろうか。知力、体力、人間性に優れていて、謙虚さとともに世の中の上に立つという強烈な自覚を兼ね備えたごく少数の人間、彼らはどこにいるのだろう。それとも、真のエリートはいつの世にあっても目立たないところで息をひそめているものなのだろうか。
 今の時代にそんな気配を伝えてくる若者に私だって会ったことがある。彼が私をないがしろにすることが無かったのを私は少しだけ誇りに思っている。


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