夢の記録

毎年のことではあるけれど、いつのまにか涼しくなって秋がやって来ると、昼間は重ね着をして出かけるようになるし、夜は厚い布団をかけて眠るようになる。昼の大気が澄んでくるように、夜の眠りも夏より深くなるような気がする。それも稔りの秋のひとつの形なのかもしれない。
 それでも、厚い布団を出してから数日の間は夢ばかりみているような気がする。しかし、夢というのはどうしてこんなに不愉快なものばかりなのだろう。夢のほとんどは不愉快なものなのだから、人生とは要するに不愉快なものなのだ、というようなことを養老孟司さんが書いておられたけれど、私もまったくそのとおりだと思う。
 心地よい夢をみたとしても、その快さなどすぐに忘れてしまって、カフカの「変身」の冒頭のように、主人公が巨大な虫に変わる前夜にみたような「落ち着かない夢」あるいは「気がかりな夢」の感触だけが残ることになる。主人公グレーゴル・ザムザのように、巨大な虫に変身することなく目覚めることができるだけ我々はまだ幸せなのかもしれない。
 夢にどんな意味があるのか、それを探る夢判断に私はもう興味が持てない。夢が何か大事なことを示唆してくれるかもしれない、あるいは未来を予知することさえあるかもしれない。その可能性を私は否定するつもりは無いけれど、それでも今の私は夢にあまり深くかかわりたいとは思わない。夢はナンセンスな断片として片付けておきたいという気持ちが強い。
 養老先生は、眠っている間も脳が消費するエネルギーは起きている時と変わらないと言っておられたし、起きている間に散らかってしまった脳を整理整頓している、それが眠りの本質だろう、とも言っておられた。その過程で出てくるナンセンスな断片が夢なのだろうか。いずれにせよ、アナーキーな夢の世界よりも、明晰な秩序がある明るい光の世界の方が今の私にはずっと好ましい。昼の世界に疲れ切って、夢の世界に逃げ込もうとしていたかつての自分が別人のようにさえ思える。
 こんなふうに、夢が不愉快で忘れられやすいのは、実は人生のすべてが夢だからではないのか、という気がする。荘子の胡蝶に言われるまでもなく、この世はリアルな夢であり、我々は全員が夢の世界の住人である。だからこそ、それに屋上屋を架することになる夜の夢の世界は不愉快になってしまうような気がする。それは、無意識の世界に逃げ込んでいないでリアルな人生をきちんと生きなさい、という警告なのかもしれない。
 前にも書いたことがあるけれど、夢と人生はその構造が不思議なくらいよく似ているのである。つまり、いつのまにか始まっていて、いつ終わるのか分からない。その世界には絶対の規準など何も無くてとことん自由である。そして、それが終わった後どうなるのかまるで分からない。死は次の夢に移行することである、と言ったひとがいたけれど、それはこの世の住人には「無」としか表現できないものなのだろう。
 唐突な連想ではあるけれど、我々は生まれて来る前に、母の胎内で何億年にもおよぶ生命の進化の歴史をおさらいする。我々はえらのある魚を経て人間の胎児になって生れて来る。その過程にどんな意味があるのか私は知らないけれど、それはなんだか夢と人生の関係にどこかしら似ているように思える。母の胎内で魚だった頃の記憶を持って生まれて来るひとはいないだろう。誕生はもしかしたら死に似ているのかもしれない。
 そんなわけで、繰り返しになるけれど、この世は恐ろしいほどリアルで自由な夢であり、我々は全員が夢の世界の旅人である。ならば、すべての写真は実は夢の記録である、ということになると私は思う。写真は不完全であるがゆえに記録としてふさわしい、という名言も私は思い出している。これは、夢よりもずっと壮大で愉快な結論だと私は思う。


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