秋の大気の中で

ミシェル・ペトルチアーニが晩年(と言っても三十代なかばだけれど)に録音した「トリオ・イン・東京」というライヴアルバムがある。ペトルチアーニのピアノの他に、アンソニー・ジャクソンのエレクトリック・ベース、スティーヴ・ガッドのドラムスというメンバーで、これはペトルチアーニ最後のレギュラー・トリオと言えるだろう。このアルバムの後にも彼の録音はいくつもあるけれど、これはペトルチアーニの白鳥の歌ではないかと私は思っている。それでも、ここでの演奏に悲壮感があるわけではなくて、楽しく重厚にスイングしながらも、一期一会という言葉を思わせるすさまじいエネルギーと気品がある。
 このアルバムのアンコールにマイルス・デイヴィスの名曲「ソー・ホワット」が演奏されている。何も無いところから美しい音楽を刻一刻と生み出してゆく奇跡がここにはあって、私はこれを聴くたびにどうしようもない憧れの気持ちをかきたてられる。
 文章も写真も、願わくば人生そのものでさえ、こんなふうに生み出すことができればどんなに素晴らしいだろう。もちろん、完全な無から音楽が生まれることなど無いことは私にも想像できる。それでも、しろうとの私には、この音楽は形の無いエネルギーからとまどうことなくつむぎ出だされたように聞こえる。天才のわざと言うしかない。
 キース・ジャレットの有名な「ケルン・コンサート」も、あの一時間以上にもおよぶ美しい音楽は、最初の五つの音からつむぎ出された長大な組曲であるように私には思えるし、即興ではないけれど、バッハのゴールドベルク変奏曲にもそれはあてはまるような気がしている。ソニー・ロリンズのソロアルバムとか、オーネット・コールマンやアルバート・アイラーが長いソロを取るアルバムもそうだと思う。先日ライヴに接することができたマイク・スターンのギターもそうだった。
 石川淳の中篇小説「紫苑物語」は、作者が思い浮かべた「国の守は狩を好んだ」という意味のフランス語を日本語に直して、この一言から書き始められたと言うし、村上春樹の長編「ねじまき鳥クロニクル」は、冒頭のスパゲッティをゆでている場面を作者が思い浮かべて、そこから始められたものだと聞いた記憶もある。  そんなふうに音楽や物語を生み出すために、作者が大変なエネルギーをかたむけていることは私にも分かるし、その快楽が何物にも代えがたいことも想像できる。しかし、どうあがいても私にはそれはできないことなので、ひたすらうらやましく憧れるしかない。
 無い知恵を絞って、あきらめの悪さだけを頼りにして、私はよたよた歩いてゆくしかない。もっとも、写真はそんなふうに無のエネルギーから生み出してゆくものではないのかもしれないし、誰かが言ったように、それはジグソーパズルのように、あっちにぶつかりこっちにぶつかりしながら作り出してゆくものかもしれない。ならば、これでよいのだろうか。何かが見えたと思ったとたんに、暗闇の中を手探りで歩いていることを思い知らされる。
 そう言えば、石川淳の短編「佳人」の中に「わたしは空虚でいっぱいなのだ。わたしというものがそもそもがらんどうなのだ。」という一節があった。あるいは「ねじまき鳥クロニクル」の中に、加納クレタという魅力的な女性の「私は通過されるべきものなのです」という言葉があったと思う。それがただの無でないことくらいは私にも分かる。
 わが身にひるがえって考えれば、写真を意味として読む立場に私はくみすることができないから、私の写真は徹底的に無意味なのだと思う。無意味でいられることが写真の強みであり写真家の幸せなのだとも思う。無意味であることによって、写真家はらせんを昇るように生きてゆくことができる。音楽とも文学とも少し違う、写真の、あるいは写真家の幸せがそこにあるのかもしれない。意味と無意味の共鳴、と言えばよいだろうか。
 それが分かったのなら、この広い空の下で私は写真を撮り続ければよいのだし、時には暗室にこもってそれを検証すればよい。そのどちらにもふさわしい、澄みわたった秋の大気がとてもいとおしい。


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