もうひとつのねがい

私が少年の頃に読んでいた、手塚治虫の「三つ目がとおる」というマンガに、コンピュータが産院の自動保育器を乗っ取って赤ん坊を思いのままにあやつろうとする話があった。
 その現場に乗り込んだ三つ目の写楽くんが、赤ん坊をあやつっているものの正体を探るために、たくさんの赤ん坊の前で物を放り投げる場面がある。せりふだけを取り出してしまうとかえってよく分からなくなるけれど、写楽くんとヒロインの和登さんの間で「みんないっせいにほうったのをみたわ」「それだけじゃない あの目つきはみんなまったくおんなじだった」「思ったとおりだっ この子たちはべつべつのものじゃなくなにかひとつのものにとっつかれてるんだ」という会話がかわされる。
 前にも書いたことがあるけれど、少年の頃に私が読んだ手塚治虫や宮崎駿、あるいは筒井康隆や星新一や小松左京といった作家たちは、数十年前に今のような世の中がやって来るのを正確に予見していたと思う。コンピュータに、とは言わないけれど、今の世の中はみんなで悪い夢をみて、それに取り付かれて悪い方向に進んでゆくのを止められなくなっている。それでも毎日を平凡に過ごすことは今はまだ可能だから、そこから抜け出す意思も方法も見つけることができない。私にはそう見える。どうすればよいのか、私には分からない。生態系が狂ってしまって、異常に繁殖した動物が集団で自傷や自殺に走るのを私は思い浮かべるばかりである。
 特定秘密保護法案というとんでもない法律が国会を通ってしまったけれど、それを許した我々は、そんな悪い夢にとりつかれてもはや身動きが取れなくなっているのだろう。そして、この法案をごり押しした張本人であるあの総理大臣は、何の深い考えも信念も持たない我々の中にひそむ白痴の悪魔なのではないか。何か物を投げられると、いっせいにその方を向いてしまう我々が、はからずも生み出してしまったのがあの総理大臣なのだろう。
 その証拠に、あの男はその場を取り繕うことしか考えていない。十年先どころか半年先のことさえ考えてはいないように見える。教養とはひとの気持ちが分かる心を言う、という名言があるけれど、あの男にはそのひとかけらの持ち合わせも見当たらない。今、そんな裸の王様の行進を許すほかに我々が生きる道は無いのかもしれないけれど、時にはあからさまな真実を声高に指摘してもよいように私は思う。裸の王様を放置しておくと際限なくつけあがることくらい、誰でも知っているはずである。
 裸の王様はともかく、白痴の悪魔というやつは、知恵のある悪魔よりも始末におえないと私は思う。なぜならそれは我々の一部だからである。いったい我々はこれからどうすればよいのだろうか。自由という牢獄の中で、豊かさという足かせをはめられた中で、我々はいったいどう生きてゆけばよいのか。恐ろしいことに誰もその答えを持ってはいない。
 この下り坂の世の中はもはや止めようが無い。それは百年も二百年も続くかもしれない。それを認めようとしないで成長幻想にしがみついているからこんなおかしな世の中になるのではないか。素直に、楽しく、そして助け合って、世の中全体が老い衰えてゆけばよいではないか。それも暖かい幸せになるのではないか。それを目指すしか生きる道は無いはずなのに、世の中がその方向に舵を切るには、かつてのバブル崩壊とはくらべものにならないほどの破局を経験する必要があるのかもしれない。はたしてそれはあと何年後にやって来るのだろうか。その前に我々は悪い夢から醒めることができるだろうか。あるいは、特に破局も何も起こらないまま、その先にある希望を見出すこともできずにずるずる退廃して不自由になってゆくだけなのか。それを見届けるのもひとりひとりが生き続ける希望になるのかもしれない。
 しかし、心あるひとは世の中に決して少なくはない。裸の王様の行進がいつまでも続くことも無い。我々はそれほど馬鹿ではない。そのことも忘れずにいようと私は思う。
 何が起こるか分からない世の中だけど、ひとのふり見てわがふり正せ、ということわざがあった。そして、そんな今の世の中に魅力的なものがさほど見当たらないのであれば、とりあえず過去の素晴らしい遺産を存分に享受して自分のこやしにしておくのがよいのかもしれない。この便利な世の中をほどほどに利用すれば、それは過去のどんな時代よりも容易にできるだろう。それこそが今やるべきことかもしれない。その蓄積と消化のうえに、いつの日か何か素晴らしいものが生まれるのかもしれない。冷静さと強靭さを忘れないかぎり、意外な希望がもたらされて、ひとりひとりが生き続けることはできると思う。そんな生活の先にはどんな歓びが待っているだろうか。


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