夏の扉

押入れの整理をしていた時に出てきた倉橋由美子の長編小説「シュンポシオン」を数十年ぶりに再読している。これは八十年代の初めに発表されたもので、その文庫版は八八年の暮れに出ている。私はそれを購入して一読した後に本棚に並べておいたのだけれど、引越しの折にそのまま手放すのも惜しかったので、荷物の奥にしまいこんでそのままになっていたのだった。
 まだ半分くらいしか読んでいないのだけれど、これはリアリズムの手法で書かれた優雅な恋愛小説と言ってよいと思う。ただし、巻末の解説にあるとおり、これは読者を選ぶ徹底的に理知的なお話であって、どろどろした愛憎を扱う大方の恋愛小説とはまったくの別物である。ここでその内容を語るつもりは無いけれど、これは二一世紀が始まって十年が過ぎた夏に、海辺の避暑地に集まった才子佳人が織りなす「饗宴(シュンポシオン)」である。その中には総理大臣を務めた老人もいて、彼が折にふれて語る政治に関する哲学のようなものも面白い。
 物語では、この時日本周辺では核戦争の危機が迫っていることになっているのだけれど、その前に東京を大地震が襲うことになっていて、地震の直後にこの元総理が再び政治の現場に向かおうとするところでこの小説は終わる。
 そんな危機の中で進展する恋愛というのは最高に優雅な快楽なのかもしれない。「シュンポシオン」の前に再読した小松左京のSF「果しなき流れの果に」も長編恋愛小説として読むことができると私は思うけれど、六十年代に書かれたこの小説の中に、二〇一〇年代に東アジアで限定核戦争が起こって、その後に世界的な核軍縮が進むという一節があった。今の時代に何かしら世界的な危機が起こることを数十年前に予感していたひとは何人もいたのだろう。こんな時代が現実のものになった今だからこそ、その優雅さを心ゆくまで味わうことも可能になる。
 仮にそんな優雅な体験を生きることが今、不可能であるとしても、かつての優雅な思い出を記憶の底から呼びさまして再び味わうのに今ほどふさわしい時は無いような気がする。あるいは、これからやって来る優雅な快楽のために、ひそやかな準備をしておくのに今ほどふさわしい時は無い、という言い方もできる。これから時代がどう変転しようともそれは関係が無い。その証拠に、季節は必ずめぐってこうして春がやって来る。
 今に始まったことではないとは思うけれど、我々が目先のことしか考えられなくなっているものだから、現実がこうして二流三流の作り話のようにしか見えなくなってしまう。かつてオウムが騒動を起こした時、現実がオウムという愚劣な作り話に負けてしまったのだという意見があった。もちろん、厳しく生きているひとも抜け目の無いひとも少なくないことを私は知っているけれど、いつのまにか世の中全体がオウム以上に愚劣なフィクションになってしまって、我々はその中で虚飾に溺れるかすりつぶされるかしか生きる余地が無くなっているように見える。であれば、こうして押入れの中から超一流の物語を探し出してきて、その優雅で切実な世界を味わうことが正気を保つ数少ない方法になるのかもしれない。今はそれが逃避ではなくて、楽しく厳しく抜け目無く生きるための備えになる。いつのまにか、世の中の価値がこうして逆転してしまった。
 そんな、優雅で目立たない試みを続けることができるのも、かつて切実な恋愛を経験したからこそなのだろう。そんな激しい愛憎をともなう記憶は思い出すだけでもエネルギーを必要とするし、その恥ずかしさや悔しさも消えることが無い。それでも、そんな記憶が長い時間を経て、生きることをこれほどの力で支えてくれる。激しい愛憎と優雅な思い出は、背中合わせに貼りついて一体になっているものらしい。
 愛することが生きる力になるものなら、その上で理知的であることが生きる助けになるものなら、それと同じくらい、憎むことや恥じることも生きる力になる。そんな思い出を私はいとおしみ、検証し、その中で何かを強く憎み、そして時にはひとりで恥じ入ることになる。それが未来への扉になることを私は知っている。
 その時、美しい思い出は永遠に終わらないことを私は実感する。何も失われてはいないし、今もすべてが生々しくうごめき続けている。現在というのは、そんなふうに過去と未来を含む重層的なもののような気がする。
 それはもちろん、強烈な生命力がこの世にひき起こす奇跡である。決して私ひとりで可能になることでもない。それを可能にしてくれたひとを私はいとおしく思い出して感謝するばかりである。それは私だけの閉ざされた世界ではないのだ。
 そして、季節は強烈な陽射しがあふれる夏に移ってゆく。それがいつか「美しい夏」になることを私は遠くから予感している。


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