目に見えないもの

踏切で動けなくなった老人を助けようとした女性が電車にはねられて亡くなった。この女性は父親と同乗した車でこの踏切に居合わせて、父親の制止を振り切って助けに入って亡くなったとのことである。しかし、彼女は動けなくなっていた老人が致命傷を負わないように的確な場所まで移動させていたというのだから、極めて冷静に行動していたのも確かなのだと思う。助けようとしてとっさに決断を下し、それを着実に実行してこのひとは亡くなってしまった。老人は大怪我をしたものの一命をとりとめたとのことである。
 たくさんのひとびとが現場に花を手向けて涙を流している。私には、亡くなってしまった女性に最大の敬意と悲しみの気持ちを捧げることしかできない。平凡で退屈な日常にぽっかりと穴が開いて、何か重いものの影が姿を見せている。ふだん我々が目をそむけようとしていることがここに鮮やかに現れている。
 それが何なのか、簡単に言葉に置き換えることは許されないけれど、その重みは心あるひとのもとには届いている。こんな出来事が起こると我々は祈ることしかできない。悲しみの前で自分の無力を思い知らされた時、ひとに残されるのは祈ることだけなのだと思う。
 だから私はこれ以上書くことはできないのだけれど、もし、私がこの踏切に居合わせたらどうしていただろうか。それを考えるのがとても恐ろしいのだ。彼女のように踏切に飛び込んでひと助けができただろうか。それとも老人がひかれてしまうのをぼうぜんと見つめていただろうか。あるいは目をそむけてやりすごしていただろうか。仮に踏切に飛び込んだとしても、彼女のように冷静に振舞うことができただろうか。こんな恐ろしい場に居合わせるということ自体が巨大な試練なのだと私は思う。
 つまり、ここでどんな行動をとるかで私という人間の本性や価値が決定的にあらわになる。倫理的に正しい行動をとれば彼女のように電車にひかれて世を去らなければならない。それをやりすごして傍観していれば、ひとが無残に死んでゆくのを目撃することになる。その上、自分が決定的に無力で卑怯な人間ではないのか、という精神の傷を負って、これからの長い人生を生きてゆくことになると思う。いくら言葉を並べてもその傷をいやすことはできないだろう。どうすればよいのか正解は無い。あるのは極めて重い選択だけである。それを瞬時に迫られるのだ。瞬時に迫られる判断だけに、そこにはそのひとの本質がいやおうなく現れてしまうだろう。
 我々がふだん生きている日常というやつは、こんな苛酷な選択が迫られることがないように造られている。だから私たちは毎日を平凡で退屈なものとして生きてゆくことができる。しかし、生きるというのは本来こんな苛酷な選択を迫られてしまう、極めて不条理なことなのかもしれない。
 こんな苛酷な試練に出会うことなく一生を終えたいものだと私は切実に思う。こんな場に居合わせたら私は何をするのか、それを私は知りたくない。つまり、ふだん見ることのない闇の中でうごめいているおぞましい私、卑小で卑怯で醜悪な自分の本当の姿をその時私は見ることになると思うからだ。それに私は耐えることはできないだろう。だから私には祈ることしかできない。亡くなった女性のために祈るのか、私がこんな試練に出会うことが無いように祈るのか、それさえも私にはよく分からない。こんなことを言ってはいけないのかもしれないけれど、祈りというのは本当に美しいものなのだろうか。
 しかし、そんな選択を迫られたことにさえ気づかないでそのまま日常を退屈に生きてゆくひともいるのかもしれない。もしそうであれば、そんな退屈な日常に何の価値があるのだろう。そこまでして生き続けるほどこの人生に価値があるのだろうか。だらだら生き続けたところで無駄ではないのか。恐ろしいことに、この問いに正しい反論は存在しない。
 神に愛される者は早く死ぬ、と言う。きれいな水に魚は住まない、とも言う。ただし、人間は誰でもいつかは死ぬ。だから、誰にとってもこの世は安住の地ではあり得ない。死ぬまでの間、こんなつぎはぎだらけで理不尽な世の中をどう生きてゆけばよいのか、たとえ苛酷な試練に出会わなくとも、我々はいつもそれを問われているのかもしれない。
 私が二十代の頃、いちばん辛かった時に読んでいた加賀乙彦の「宣告」という長い小説がある。刑務所の精神科医を務めた作者による死刑囚の物語だ。その最終盤、作者の分身である精神科医と死刑囚が処刑をひかえてかわす対話がある。「ねえ、何もないことがこの世を支えてるんじゃないかしら」「それはこの世への徹底した無関心と明るい平和に充ちています。つまり充実した闇です」…死刑囚と一緒にするなと言われそうだけれど、踏切で亡くなった女性は、そんな異界に旅立っていったのかもしれない。生きていた時から、そんな異界のすぐそばにいたひとだったのかもしれない。彼女の優しい遺影がそれを思わせてくれる。
 結局、私にそんなひとを祈る資格は無いのかもしれないけれど、それでも、残された我々が生きるこの日常のすぐ後ろには、実はとんでもなく恐ろしいものが隠されている。そのくらいのことは私にも分かる。だから、虚飾におぼれてのんべんだらりと生きていると、それ自体が救いの無い地獄になってしまうのである。それを思えば生きる勇気がわく。当たり前のことだけれど、死ぬまでは生きてゆく。大したことはできないけれど、それでも陽の光に恥ずかしくないようには生きてゆきたいと思う。そんな、本当にささやかな覚悟を持っていれば、こんなアホらしい世の中にも少しは優しくなれるのかもしれない。


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