冬の旅

雪が積もる季節になると私は先史時代のひ とびとのことを考える。土器も農業も知らず に苛酷な冬を越えて生き続け、はてしない旅 を子孫に引き継いでいった我々の遠いご先祖 様のことである。
 縄文時代より前の旧石器時代について書か れた本によれば、二十万年前にアフリカで生 まれた我々のご先祖様はその後地球上の各地 に拡散を始めて、四万年前には日本列島にた どり着いている。一方、中国大陸からそのま ま北上したひとびとは、二万年前には何と酷 寒のシベリアへ進んで、そのまま陸続きだっ たベーリング海峡を越えてアメリカ大陸に渡 っている。
 前にも書いたことがあるけれど、それが私 には何とも不可解に思える。温暖な中国大陸 から、なぜご先祖様はわざわざシベリアに移 住したのか。進めば進むほど寒くなるのに、 なぜその歩みを止めなかったのか。それが私 にはどうしても分からない。その問いに答え てくれる本や先生には残念ながらまだ出会っ ていない。
 北上するほどマンモスがたくさん獲れると いう事情でもあったのだろうか。それにして も、それが苛酷な寒さを覚悟してまでの魅力 だったのだろうか。あるいは、単に故郷を追 われたというだけのことならば、どこか適当 な場所で歩みを止めてもよいだろう。しかし 、そうしなかったひとびともいた。ご先祖様 は地図も地球儀も持たなかった。行き先に何 があるのかまったく分からないのに彼らはひ たすら北上を続けて、ついには北極圏を経て アメリカ大陸にまでたどり着く。そして、ア メリカ大陸に渡ったご先祖様は、今度はひた すら南下を始めて二千年たらずの間に南アメ リカ大陸の南端にまで住み着くようになる。 今度は南下すればするほど寒くなるはずなの に、それをものともせずに彼らは移住を続け る。
 この、ご先祖様の過激な大移動を「グレー トジャーニー」と呼ぶそうだけれど、その原 動力はいったい何だったのだろう。それを私 は知りたいと思う。
 直立して二足歩行するようになった人類は 、他のどんな動物よりも移住する能力に優れ るようになった、という話なら私も聞いたこ とがある。あるいは人間に限らず、生息可能 な場所があれば万難を覚悟の上で居住地を広 げるのが生命の本質だ、といったひともいた と思う。たとえば、海で発生した生命が、わ ざわざ苛酷な地上に進出した理由も考えてみ ればよく分からない。そんなことをしなくと も暮らしてゆけるのに、それでも危険と困難 を覚悟の上で新しい場所に移住したり、これ までと違ったことをやってみたくなるのが生 命というものらしい。その、過激で向こう見 ずな進化の果てに現れた我々人間という生き 物も、その本質を忠実に受け継いでいるもの らしい。人間の知性や文明をもってしてもそ れを解明するのは難しいということなのだろ うか。
 生命というのは、あるいは人間というのは 本当によく分からないものだと私は思う。そ して、この私自身もそんな過激な闇を抱えた 地球生命の一員であることに深い驚きを覚え るのである。私の中にはいったい何があるの だろう?
 技術文明の歴史はせいぜい数百年しか無い 。それでは推しはかることができない、何万 年、あるいは何十億年もかけて鍛えられた強 大なエネルギーが私の中にもひそんでいる。 それが本気で動き出せば、苛酷な冬の旅を続 けたご先祖様のように、自分自身を危険にさ らすこともいとわないだろう。私だけではな くて、この世に生きているすべてのひとがそ うであるはずなのだ。
 怖いと言えばこれ以上怖いことは無いし、 心強いと言えばこれ以上心強いことも無いの だと私は思う。ただ、その目に見えない重み を噛みしめて、このはてしない可能性を信じ ることはとても大切であるように私には思え る。その時、遠い昔にはてしない旅を続けた ご先祖様を思うこともできるだろうし、今、 我々の前にあるこの世界がまったく違った深 みをもって現れるのかもしれない。
 ゴーギャンの絵のタイトルだったか、我々 はどこから来たのか、どこに向かっているの か、我々は何者なのか、そして今はいったい 何時なのか。光と闇の中で、そのはてしない 問いに身をまかせながら平然と生きてゆくこ と。実はそれもグレートジャーニーの一端か もしれない。何万年も何十億年も続けられて きたグレートジャーニーは今も終わっていな いのだろう。もし、その怖さの向こうに深い 歓喜があるのならば、それがこのはてしない 旅を支えてきたのかもしれない。
     ならば、もう何を恐れる必要も無い。ご先 祖様が乗り越えてきた冬よりはるかに快適で はあるけれど、それでもこうしてまた冬がや ってきた。そして、季節だけではなくて、休 眠状態に入ったと伝えられる太陽のように、 我々の深い無意識もまた、少し長い冬を迎え ているのかもしれない。もしそうであれば、 そのいくぶん鎮まった我々の精神に何よりも ふさわしいこの冬の景色の中に、いったい何 が見えるものだろうか。


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