おまけの人生、ナマコの人生

「ゾウの時間 ネズミの時間」という本で 知られる本川達雄著「「長生き」が地球を滅 ぼす」という本を私はお盆休みの間に読んだ 。その巻末に著者は「売れない名著」という コメントを寄せているけれど、私があれこれ 不安に思ってきたことは何だか全部この本に 書いてあるみたいだ。
 「「長生き」が地球を滅ぼす」の内容を要 約して紹介することは私の手に余るし、もっ たいないのでそんなことはやりたくない。た だ、エネルギーを使うほど時間は速く流れて しまって、効率と便利さの中毒になったあげ く、不安で退屈で子孫に罪作りな老後だけが 我々を待っている、ということをこんなふう にきちんと指摘したひとは他にいないのでは ないかと私は思う。遅ればせながら付け加え ると、著者はナマコの研究が専門の生物学者 である。
 まともな生活をさらにあおるような便利さ にも、過剰な豊かさにも愛想をつかしてしま った私には、時間の速さと密度は自分で決め ることができるのだ、という著者の意見はと ても心強く思える。宇宙のどこでも一律に流 れてゆくニュートン的な時間でひとつひとつ の生命、つまりそれぞれの人生を規定する必 要は無い、とも著者は述べている。
 他でも聞いたことがあるけれど、ヒトの体 重から算出すると、我々の寿命は三十歳くら いが妥当なところなのだそうだ。縄文時代の 平均寿命はそのくらいだったというし、三十 年あれば生まれた子どもにまた子どもができ るくらいにはなるから、世代をつないでゆく にはそれで充分だということになる。だから 、三十代以降、あるいは子どもが成人した後 は「おまけの人生」ということになるわけで 、それは実感として今の私にはよく分かる。 三十歳を迎える時、そして三十代の半ばで私 は心身ともにずいぶん辛い目にあって、その おかげで二十代以前が今はまるで前世のよう に思える。それでも、今の「おまけの人生」 の方がいろんなものがよく見えるようになっ たのだから、あのまま死んだり投げやりにな ったりしないでよかったとつくづく思う。
 それでも、クリフォード・ブラウンやスコ ット・ラファロといった若くして亡くなった 天才の人生をうらやむ気持ちは今も私の中に ある。もちろん私にはそんな才能も資質も無 い。どうやら私の人生は自分でも嫌になるほ ど長いらしい。それを大切にして少しずつ歩 んでゆくしかない。そう思えるだけ私は幸せ なのかもしれない。それを自分に納得させる ために、三十代前後の辛い体験が私には必要 だったのだろうか。今の私の辛さや不安は、 その次の山を乗り越えるために必要なのだろ う。そう思って何とか生きてゆきたい。
 ただ、人生は一律に流れてゆく時間に規定 されるものではない、という著者の見解が、 その辛さを少しずつ消していってくれそうな 気がしている。ある種の倫理を厳格にわきま えていれば、もっと気ままに気まぐれにわが ままに生きてもいいのだ、という結論がそこ から導かれるからだ。心身を鍛えて柔軟に保 つこと。それが何よりも必要になるけれど、 それはまさにナマコではないか。
 いったい何をそんなに怖がらなくてはいけ ないのか、何をそんなに不安に思わなければ いけないのか。世の中に何が起ころうと私は 生き続けてゆくし、こんな私を忘れないでい てくれるひとはたくさんいる。それで充分な はずなのだ。私は、与えられた時間を大切に 歩んでゆけばよい。真の孤独は若い頃には苦 痛であるけれど、歳を取ると次第に甘美にな ってゆく、というようなことをアインシュタ インが言っていたのを私は思い出す。アイン シュタインこそ、時間というものを誰よりも 深く探究したひとだった。もしかしたら、こ のひともナマコ人間だったのだろうか。
 そして、高齢化社会の生き方を教えてくれ るものはない、とこの本の著者は述べている けれど、明確な指針が無い、ということは、 厳しくも甘美な真の自由がそこにある、とい うことにもなるだろう。それを私は待ち望ん でいるような気もしている。我が世の春、で ある。
 ところで、この「「長生き」が地球を滅ぼ す」で示される、これからの年寄りのあり方 など私がぼんやり考えてきた年寄りの理想像 と実によく一致している。若者の中にも年寄 りが住んでいるし、その逆もまた当然のこと である。精神は本当に老化するのか、という 私の積年の疑問がまたここで浮かび上がる。 つまり、精神は経験を積むことによってたく さんのことを思い出してゆくだけではないの か。ずっと以前から私にはそんな疑問があっ た。老化するのは肉体だけではないのか。そ の、肉体の老化も本人の心掛け次第で速くな ったり遅くなったりする。人生は確かに自由 なのである。あとは恐れや不安という毒を制 御できるようになればよい・・・
 最後に写真の話をするならば、写真は見え るものしか写らない、という真実と同じよう に、見たいものしか写らない、ということも 言えるのだと思う。カメラという機械がいか に克明に世界を描写するとしても、写真には 写真家が見たいと思う世界しか写らない。
 ならば、私は、あまりにも速く通り過ぎて ゆく今の世の中を正視したいとは思わない。 それを写すのが私の仕事だとも思わない。人 間の能力を越えて高性能で高速化したデジタ ル写真に今ひとつなじめないのはそのせいな のだと思う。ゆっくりとうつろってゆくもの を、私は時間をかけて写しとめたい。そのた めに私の人生の時間は設定されている。そう 思わないと、私は写真を撮り続けてゆくこと ができないと思う。もしかしたら、これも希 望のひとつなのかもしれない。
 ・・・この本を読み終わって改めて考えてみる と、私も著者の専門であるナマコになる素質 があるのかもしれない。のんびりしているよ うに見えるけれど、ナマコには実はものすご い情熱や執念がひそんでいるように思えてく る。その前では人間の浅知恵などあっと言う 間に色あせてしまうだろう。あらゆる生物の 中でヒトの歴史がいちばん短い、ということ を忘れないでいようと思う。
 ところで「ナマコになりたい」と公言して いる森山大道さんは、この、ナマコが専門の 生物学者の本をお読みだろうか。お読みであ れば、どんな感想をお持ちだろうか。聞いて みたい。


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