幸福論、みたび

この三月に亡くなった吉本隆明は膨大な著 作を残しているし、その中には簡単には読み こなせない文章もたくさんある。それでも、 このひとの文章は常に明晰であるし、読み手 を惑わせるために書かれたものではないので 、たとえその時に理解することができなくと も、そのまま手放す気になれない不思議な魅 力を持っている。吉本隆明の文章は読み手を いつまでも待っていてくれる、と言ってもよ い。吉本隆明は科学者であり詩人であり、市 井に生きる普通のひとだったからこそそれが 可能になったのだと私は今、痛感する。「い いことばかりを言う人が増えている」とか「 困ったらインチキでもやるしかない」とか、 そんな言葉が私はとても好きだ。
 「死」について、「死ねば死にきり」とい う言葉が好きだ、死後のことはかんがえなく てよい、と吉本隆明は言っていたけれど、本 人が亡くなった今となってはそれが何と瑞々 しく活力に満ちたものか。死後の生命とはそ んなふうに豊かなものなのだろうか。
 「人間の生活には幸福な生涯も不幸な生涯 もないものでしょう。ままならない時間が過 ぎていく中で、或る日、天空を仰いで眼を細 めて安堵する瞬間があったら、その時が幸福 ではないのかな。」
   これは十数年前、吉本隆明が海で溺れて一 命をとりとめた後に出された「遺書」という エッセイにあった言葉だけれど、幸福という ものについて、これほど深くて味わいのある 言葉は他に無いように私には思える。草野心 平の詩に出てくる蛙たちが見い出す幸福を私 は思い出す。草野心平も長くてアナーキーな 生涯を送った詩人だったと思う。
 それにしても、人生はままならないものだ 、ということは青春期を過ぎた人間ならば誰 でも知っていることではあるけれど、それを これほど素直に認めて味わい深く表現できる ひとは本当に少ない。たいていの大人は、そ の現実を前にして、すねて立ち止まっている だけのように私には思える。要するに、苛酷 ではあっても当たり前のことを素直に認めて 表現すること。そんな単純なことさえ人間に はなかなか辛くて難しいことであるらしい。 それよりも、つまらない幻想にしがみついて いる方が楽と言えば楽である。
 「でもさ、ナカタさん。そんなこと言い出 したら、俺たちはみんな多かれ少なかれ空っ ぽなんじゃないのかい。メシ食って、クソし て、ろくでもない仕事をして安い給料をもら って、ときどきオマンコするだけじゃないか 。それ以外に何があるんだい。」というのは 村上春樹の長編小説「海辺のカフカ」に出て くる台詞である。「でもまあ、そんなこと言 いながらも、こうやってそれなりに面白おか しく生きてる。なんでかは知らねえけどさ… …。うちのじいちゃんがよく言ってたよ。世 の中ってのは自分の思い通りにならねえから 面白いんだって。…」
 ここまで達観するには、それこそ青春期を 過ぎて成熟する必要があるように思えるけれ ど、この台詞を口にするホシノ青年はまだ二 十代、これはきっとホシノ青年とともに旅を 続けるナカタ老人と、小説には一度も姿を現 さないホシノ青年のじいちゃんの功徳なのだ ろう。
 吉本隆明も村上春樹も、やりたいことを仕 事にして生きる幸せなひと、と世間の大方の ひとは見ているみたいだけれど、もしそうな らば、ふたりともこんなに深い言葉を生み出 すことは不可能なはずだ。ままならない生涯 をしたたかに生きるからこそ、こんな言葉が 生まれてくる。どうして世間のひとにはそれ が分からないのだろう。私にはそれがとても 不思議だ。
 好きなことを仕事にしているひと、と言え ばイチローの名を挙げるひとが多いけれど、 私は以前イチローのインタビューを読んでい て、彼にも野球をしたくないという日がある 、という発言があったのを憶えている。そん な日には、これは仕事なのだから、と自分に 言い聞かせて打席に入る、とイチローは語っ ていた。イチローでさえそうなのだから、我 々が時折、仕事をしたくない、とか、生きる 意欲が湧かない、とか思うのは当然のことな のである。それが私にはずいぶん大きな救い になった。世間で偉そうなことを言っている ひとは、どうしてこういう発言に注目するこ とができないのだろうか。世の中のどこかに は常に活力にあふれた人間がいて、彼または 彼女は好きな仕事を楽しくこなして、はつら つと生き続けている。そんな幻想が必要とさ れる社会はどこかしら狂っているのではない だろうか。
 仕事とは生きるために払う税金のようなも の、と言ったのは養老孟司さんだったと思う けれど、これも至言だと私は思う。なるべく 税金は払いたくはないけれど、しかし適切な 税金を払わなければ世の中も自分も破綻して しまう。だからこそ、好きなことを仕事にし てはいけないのだと私は改めて思う。仕事に するべきは「嫌いでなくて多少の才能に恵ま れたこと」なのだろう。報酬を得る、職業と しての仕事であっても、あまりお金にはなら なくとも、天職として一生をかけて追求する 仕事も、好きで好きで仕方がないことをそれ に選んではいけないのだ。
 谷川俊太郎が「俺は詩人なんて商売よりも 町の電気屋になりたかった」とか、武満徹が 「作曲なんか止めて佃煮屋になりたい」と言 っていたのも私は読んだことがある。森山大 道さんだって「本当は登山家かコメディアン になりたかった」とどこかで書いていた。や りたい仕事をして生きているように見えるひ とこそ実はそんなふうに思っているものらし い。そもそも、本人の好き嫌いと才能の有る 無しには何の関係も無い。そして、世間の大 方のひとはそこに思いをのばすことができな い。だから、偉そうなことを言っている連中 の言うことなど信用してはいけないのだ。
 本当に好きで好きで仕方の無いことは、そ れ自体でとても貴重なものなのだから、お金 を稼ぐ手段にしてしまうのはあまりにも惜し い。私が本当に好きなことは、安宿でくつろ いだりひなびた温泉に浸かることだけれど、 そして、世の中にはそれを仕事にしているひ とがいることも私は知っているけれど、私は まかりまちがっても、それを仕事にしてしま うことは断固拒否したい。本当に好きなこと を仕事にしてしまうのは自分も他人も不幸に してしまう。あまりにも好きなことは冷静に 客観的に見ることができないものなのだから 、それは仕事には不向きなのだ。だから、仕 事の達成感を味わうというささやかな幸せも そこからは得られない。私は以前、趣味は仕 事、という馬鹿なことを公言する社長のもと で働いていたことがあるので、その弊害を嫌 というほど知っている。だからこんなことが 言えるわけだ。
 なかなか難しいことではあるけれど、たか が仕事、と思っていた方が幸せな人生を送れ るような気がしているし、かえって幸せな仕 事ができるような気もしている。私にしてみ れば、たかが仕事、そして、たかが写真、で ある。私にとって写真は天職ではあっても職 業ではない。写真を撮るのはもちろん好きだ けれど、どうして私が写真を撮っているのか 、そんな大切なことがいまだによく分からな い。分からないからこそ私は撮り続けるし生 き続ける。もちろん、嫌いでない仕事、つま り誠実にこなせば他人が感謝してくれる職業 としての仕事も続けてゆく。大変ではあるけ れど、これはきっと幸せなことなのだろう。 そう思って生きてゆくしかない。
 そんな中で、まさに天空を仰いで眼を細め て安堵する時間があったら、それこそが幸せ の贈り物なのだろう。今までの私にだってそ れは何度かあったし、きっとこれからの人生 でもそれにめぐり会うことができるだろうと 私は思っている。


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