バカの功徳
この前は、将棋の米長元名人がコンピュー
タと対戦して敗れた話を書いたけれど、その
後新聞をななめ読みしていたら、米長元名人
が人工知能の進歩についてコメントしている
記事をみつけた。
正解がふたつ以上存在する場合はコンピュ
ータの判断力は鈍る、とか、コンピュータが
今まで残された膨大な棋譜を参照しないで将
棋を指すようになったら人間はもはや勝てそ
うにない、とか、人間が最善の手を指そうと
するとコンピュータには絶対に勝てない、と
か、さすがに数々の修羅場をくぐり抜けてき
た百戦錬磨のプロ棋士は、人間とコンピュー
タの特質を正確に把握しているのだな、と私
は感動した。私は将棋のことはまったく分か
らないけれど、現役時代の米長元名人の棋風
は「泥沼流」と呼ばれていたのを思い出した
。記事と一緒に掲載されていた元名人のポー
トレートも実に素敵である。
この新聞記事には、米長元名人と並んで、
博士号を持ったSF作家と、コンピュータに
東京大学の入学試験問題を解かせる研究をし
ている人工知能の研究者のコメントも掲載さ
れていた。しかし、それがふたつとも私には
読むに堪えなかった。
このSF作家は、人工知能がこのまま進歩
してゆくことにまったく不安を抱いていない
ように見受けられるし、人工知能の研究者は
、東京大学の入学試験問題を解くことがまる
でこの世でいちばん大切なことであるように
思っているみたいだ。この研究者が書いた本
を私は図書館で読んだことがあるけれど、近
い将来、コンピュータが人間の仕事の多くを
奪ってしまう悲劇を、この人は深刻に考える
ことができないのだな、という印象を私はそ
の時に持った。
頭が良すぎる連中は本当に困ったものだ、
と私は改めて思う。このふたつの記事には、
頭が良すぎる人間の致命的な欠陥が見事に現
れている。彼らは頭が良すぎるあまり自分の
中ですべてが完結してしまって、その裏側に
ある暗くて冷たいものを深く追求することが
できない。存在をおびやかす絶海の孤独とい
うものをこの種の人たちは知らないのではな
いか、と私は思う。オウムの秀才どもや、原
子爆弾を開発した科学者と同じ種類の欠陥が
ここに現れている。「想定外」という無責任
な言葉を口にするのはこんな連中ではないの
だろうか。
そんな秀才どもはいつの世でも必ず一定量
が出現するのだろうし、彼らを真人間に矯正
する制度も日本には無いのだから、そんな秀
才連中をうまくだましてとんでもないものを
作り出すことは今でも充分に可能だというこ
とになる。人工知能の研究というのは広大な
自然を観察する必要も無いし、生身の人間と
向き合う必要も無いように思える。それは極
めて危うい学問ではないか、という偏見が私
にはある。
そんな、破綻の無い小さな世界に住む秀才
連中は、ずっと象牙の塔の中で生きていてほ
しいと私は思う。彼らがへたに世の中にかか
わろうとするとろくなことにならないだろう
。官僚の不祥事を見ればそれが分かる。米長
元名人が、自身の御兄弟について「あいつは
頭が悪いから東大に入った」と言っていたの
を私は記憶している。将棋は自分や相手との
対話や駆け引きであって、決して自分の頭の
中で完結するものではない。米長元名人はそ
のことを言いたかったのではないか、と今に
して私は思う。余談ながら、私の大学時代の
恩師は東京大学の出身で、酒を呑むと母校の
悪口ばかり言っていたので私もこんなことを
書くわけである。
いずれにせよ、今や人間の尊厳をおびやか
すまでに急成長したコンピュータを開発した
のは、当然のことながら天才あるいは頭が良
すぎる秀才連中である。コンピュータの開発
にバカがかかわることはなかったのではない
か、と私は思う。そのへんが昔のカメラや自
動車と違うところだろうと私は思うけれど、
もしそうなら、コンピュータというものは頭
が良すぎる人間の欠陥を正確に受け継いでい
るはずである。バカによる試練を受けること
無く誕生してしまったのならそれは当然のこ
とだろう。正解がひとつしか無い場合には圧
倒的な処理能力を発揮するけれど、それが複
数の場合には充分にその能力を発揮できない
、というところにそれがよく現れている。正
解がひとつしか無い入学試験問題を解くのに
無敵の能力を発揮する受験秀才の特質と、そ
れは見事に一致するのである。
そうすると、コンピュータにバカは可能か
、という問題が現れてくる。頭の良すぎる連
中は象牙の塔の住人や官僚になることはでき
てもプロ棋士や芸術家にはなれないし、自然
や人間を対象にする科学者になることもでき
ないだろう。その敷居を踏み越えるためには
、繰り返しになるけれど、絶海の孤独の中に
身を投げて生身の他人と格闘しなければなら
ない。それを世間のひとは「世の荒波に揉ま
れる」と言ったわけだが、その過程で、まと
もな人間なら誰でも身につけている、バカの
功徳が備わってくることになる。
結局、バカというのはつくづく偉大なもの
だと私は思う。バカボンのパパのように、そ
んなバカの功徳を身につけてしまえば、この
現実を生きる辛さが少しは和らいで、そのう
え楽しいことが増える。暗さも冷たさも、も
ちろん明るさも温もりも等しく存在するこの
世界に踏み出して、そこでしたたかに生きて
ゆくのは素敵なことだと私は思うのだ。
もし、いつの日かバカを内包したコンピュ
ータが現れるのなら、私も人間の未来を信頼
できるようになれるかもしれない。藤子不二
雄のマンガに出てくるような、人間の友とし
てふさわしい、血と涙がかよった、愉快なコ
ンピュータやロボットがそこで初めて可能に
なるだろう。彼らが本当に人間の良い友にな
ってくれるのなら、広大な宇宙にぽつんと取
り残された我々人類の、種としての深い孤独
が、そこでいくらかは解消されるのかもしれ
ない。