まほろば

昨年亡くなった小松左京のベストセラー小 説「日本沈没」が発表されて映画やテレビド ラマになったのは私の少年時代のことで、私 はそのテレビドラマ版をリアルタイムで見続 けていた記憶がある。私はそれを熱心に見て いたわけではなかったけれど、それでもあの ドラマは私の少年時代の無意識の記憶として 、確実に身体に染みついているような気がす る。
 小松左京が亡くなってから出た雑誌の記事 に目を通して私はやっと知ったことなのだけ れど、彼はこの作品について、日本人の全員 が日本列島から離れざるを得ない状況を描き たかった、というような発言をしていたと思 う。ここ二千年くらいの間、日本人が故郷を 捨てなければならなかったことは無かったか ら、とも彼は述べていたと思う。
 私が今さら言うまでもないことだけれど「 日本沈没」に限らず、小松左京の小説には故 郷が失われる話が多いような気がする。その 「故郷」は、彼が生まれ育った大阪や京都で あったり、日本列島であったり、地球全体で あったりいろいろである。その失われ方も、 沈没であったり、戦争による破壊であったり 、異次元への跳躍であったり、これまたいろ いろである。この多様さは、彼が「故郷」を 極めて柔軟な姿勢で、様々な角度から考えて いた証なのかもしれない。それはもちろん、 彼が誰よりも「故郷」を愛していたことを示 してもいるはずだ。よく言われるように、こ の営みは小松左京の少年時代の、戦争体験の 切実な検証でもあるだろう。
 たしかに、私が知っている範囲では、日本 という国が成立してから、あるいはもっとさ かのぼってその原型である弥生時代より後に 、我々日本人が故郷を捨てなければならなか ったことは無かったと思う。縄文時代中期に 、三内丸山遺跡のような巨大な集落が、何十 年かの時間をかけて完全に放棄されて無人に なってしまったのが、日本の歴史の中で故郷 が捨てられたほとんど唯一の例ではないかと いう気がする。そして、この巨大な縄文都市 が放棄された理由も、そこに住んでいたひと びとがどこに行ってしまったのかもいまだに 謎なのだそうだ。もしかしたら、そんな行動 を取ることができた縄文人は、今の我々とは かなり異なる精神文化を持った異邦人だった のかもしれない。
 いずれにせよ、その後おそらく二千年以上 の間、故郷を捨てるという苛酷な経験をせず に生きてきた我々日本人は本当に幸せだった のだと私は痛感する。たとえ何が起ころうと も、我々は「国破れて山河あり」という実感 とともにこの日本列島に住み続けることがで きたのである。
 ところが、昨年の原子力発電所の事故のた めに、我々日本人が故郷を捨てざるを得ない 、という歴史上初めての事態が福島県で起こ ってしまった。この、前代未聞の不幸を、そ の歴史的な重みと苦痛を、当事者以外の日本 人がはたしてどれだけ意識しているのだろう か。これは、おそらく日本人には耐えられな い種類の苦痛だろうと私は思う。それとも、 歴史上まったく経験が無い事態に直面して、 我々はそれを受け止めることさえできていな いのだろうか。これは、日本の歴史と伝統の 取り返しのつかない崩壊ではないのか。
 今は「国破れて山河あり」ではなくて「山 河破れて国あり」なのだ、と言ったのは五木 寛之だった。たしかに、故郷を追われて水も 食べ物も住まいも回復不可能なほど汚染され てしまっても、我々を統治している国家は変 わることなく存在している。その上、その愚 劣さにはますます磨きがかかってしまって正 視するのが耐えられないほどである。それで も、暴動や恐慌が起こるわけでもなく、外国 から侵略されるわけでもないこの国はたしか に幸運ではあるだろう。
 おそらく、私に限らず大多数の日本人は、 この生活と日本の国土や文化をかけがえなく 大切に愛しているはずである。しかし、その 上に君臨している政治家と官僚が作り上げて いる政府は、いったい何の権限があってこれ ほど愚劣な振る舞いを続けるのだろうか。そ れが私にはまったく理解できない。なぜ、あ んな連中が我々の生活に介入してくるのだろ うか。そして、ひとびとの苦しみをよそに、 これほど愚劣な政府になぜ引き続き巨大な権 力が与えられ続けるのか、私には本当に分か らない。
 たとえば、消費税を上げなければ社会が破 綻する、と政府は言っているけれど、それが どうした、という気がしているのは私だけだ ろうか。こんな世の中を導いたのは野党を含 めた政治家や官僚であるはずなのに、なぜ彼 らにこれ以上税金を納めなければならないの か。税金をたくさん納めると苦しくなるのは 我々の生活であって、政治家や官僚のそれで はない。仮に社会が破綻したところで、庶民 は強くしぶとく生きてゆけるけれど、権力を かさに着た政治家や官僚が今までのぜいたく を続けるのは不可能になる。彼らはそれが怖 いだけではないのか。
 政府が日本を本当に代表しているのなら、 故郷を追われた福島のひとびとをこんなふう に冷遇することは無いはずだし、よその原子 力発電所を再稼働することも無いはずである 。もう一度、日本のどこかで原子力発電所の 事故が起これば、日本人は本当に日本を捨て て、行くあても無く出てゆかなければならな くなる。それが明日にでも起こる可能性があ ることが分かってしまったのに、それをひた すらごまかし続けようとする政府とはいった い何なのか、それが私には分からない。それ によって政府にはいかなるメリットがあるの か、それも私には分からない。
 もしかしたら、この国の政治家や官僚は本 物の白痴になってしまったのではないか、と 私は思う。今の総理大臣の顔、あれが国家権 力の頂点に立つ人間に相応しいものとは私に はお世辞にも言えない。あれは、ディズニー ランドあたりに立っている間抜けなマスコッ ト人形にしか私には見えないし、野党第一党 の党首の顔はマヨネーズ会社のマスコット人 形のようである。日本には人種、宗教、言語 というどこの国でも抱えている問題が無いに 等しいから、誰もが政治家になれるおめでた い国なんだ、と言っていたのは田村隆一だっ たと思う。
 日本にいる限り、もはや安全な場所などど こにも無い。放射能と共存し、無能な政府と 共存し、いつ故郷を追われるか分からない不 安と共存する。それ以外に我々の生きる方法 は無い。外国からの侵略は無いにせよ、世の 中はひたすら乱れて崩れてゆくばかりである 。家族が殺し合い、自殺者が増え続け、まと もな仕事が失われ、ひきこもりという廃人が 増え続け、心身を病むひとが増えてゆく。こ んな地獄の中で、きらびやかな情報だけが派 手にゆきかい、砂上の楼閣にあだ花が咲き続 ける。
 こんな世の中を病むことなく楽しく生きる ことはそれでも可能なのだが、その方法は、 もはやひとりひとりが自分で見つけるしか無 いように私は思う。少年時代に小松左京の作 品に親しんでいた幸せを今、私は噛みしめて いる。小松左京は今の時代の頽廃をも正確に 予測していたけれど、それでも彼は強く優し く生き続けた。そのことが、今を強く楽しく 生きる力を与えてくれるように私は思う。野 暮はよそうよ、ということだろうか。
 とりあえず見た目は今までとさほど変わる ことが無く美しくて、明るい陽射しにあふれ た春が今年もやって来ている。その陽射しを 楽しむことは我々にまだ許されている。


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