負けるが勝ち?
私は駒の動かし方もろくに知らない将棋オ
ンチなのだけれど、弟が熱心に将棋を指して
いたのを見てきたおかげで、いつのまにかミ
ーハー将棋ファンになってしまった。
何をやっているのかまったく分からないけ
れど、お正月にNHKが毎年放送しているバ
ラエティー風の将棋番組を見るのは面白いし
、弟が買っている将棋雑誌に目を通すのも面
白い。そこに載せられている、対局中の棋士
の写真はとても素敵だ。弟が教えてくれる将
棋界の裏話はとても面白いし、有名棋士が将
棋ファン以外のひとに向けて書いた本を読む
のも面白い。もちろん、将棋の世界は面白い
だけではなくて、私ごときには想像できない
ほどの深みと恐ろしさがあるみたいだ。
写真の世界がデジタル化とインターネット
の出現によって大きく変わったように、将棋
の世界もパソコンやインターネットの出現に
よって大きく変わったということである。地
方に住んでいるアマチュアでも、それを利用
することによってレベルの高い勉強や対局を
続けることが可能になった。そのおかげで、
アマチュアの実力が飛躍的に高くなった、と
のことである。そして、コンピュータがプロ
棋士の実力を越えるのは何時なのか、という
ことが大きな話題になっているらしい。
コンピュータの容量と計算の速度は技術の
進歩によって急速に進歩しているそうだから
、いくら将棋が複雑なゲームだとしても、コ
ンピュータがすべての可能性を一瞬のうちに
検討したうえで最善の一手を選択して、生身
の人間を追い詰めることはいずれ可能になる
のだろう。米長元名人がコンピュータと対局
して敗れたのがニュースになったけれど、そ
の時、コンピュータは元名人のミスを誘い出
すような芸当さえやってのけたらしい。人間
は必ずミスを犯す。それにつけこんで、膨大
な記憶と正確で素早い計算に物を言わせて相
手を追い詰めてゆく。それがコンピュータの
「定跡」であるらしい。あらゆる局面を想定
して、そのすべてに対して万全の対応策を用
意して、ミスを犯すことなく必ず勝ちにゆく
。不利な局面を打開するためには相手を挑発
することさえもやってのける、ということら
しい。もしそうなら、これは勝つための究極
の思想ということになる。
それにしても、このような極限の状況の中
で、機械と人間が能力を競うことに果たして
どれだけ意味があるのだろうか。それを考え
てみるのは決して負け惜しみにはならないと
私は思う。つまり、将棋が勝つことを至上の
目的としている苛酷なゲームであることは当
然としても、ここで機械が与えられている「
勝つ」という価値と、人間が抱くそれとは似
て非なるまったくの別物ではないのか、とい
う気がする。
これをうまく説明するのは難しいけれど、
似て非なるものがいつまでも競い合っていて
も豊かな稔りは得られない。ひとつ例を挙げ
ると、自動車と人間が競走するのは言うまで
もなくナンセンスである。そして、自動車の
性能が圧倒的に人間を越えてしまった今でも
、べつに陸上競技の魅力が衰えてしまったわ
けではない。機械の能力が人間を越えてしま
ったことを間違って悲観しても仕方が無いの
ではないか、と私は思う。
機械に負けることによって、今まで発見さ
れることがなかった人間の深みが見い出され
る、ということはあり得ないのだろうか。そ
こから豊かな可能性と自由が開ける、という
ことは起こらないのだろうか。つまり、負け
ることは勝つことよりも多くの教訓をもたら
す。それは努力の余地を作り出す。そして、
相手と自分の違いを子細に検討することを強
要する。それは相手が機械であっても変わる
ことの無い鉄則だろう。それに目を向けずに
いるのは、もしかしたらただの怠慢かもしれ
ない。そんな努力によって相手に再び勝つこ
とができなくとも、そこから信じられないほ
どの深みを手にすることができる。それが、
負けがもたらす価値である。ただ、その価値
は数値化するのも他と比較するのも難しいの
で他人には理解されにくい。それだけのこと
である。
今の世の中のこのどうしようもない閉塞も
、もしかしたらそのへんに原因のひとつがあ
るのかもしれない。何事につけても機械が人
間の能力を越えてしまって、それにまともに
ついてゆこうとすると我々は心身を病むしか
ない。あるいは、数値化されたものしか検討
できないように洗脳されてしまうしかない。
その結果、悪に対する耐性が極めて弱くなっ
てしまって自滅への道を歩んでしまう。みず
から檻に入ってしまった実験動物である。
機械は人間が作り出したものだけれど、そ
れは人間とはまったく異なる思想によって成
立している異物である。繰り返しになるけれ
ど、人間から与えられている機械の「勝ち」
と、人間が自発的に抱く「勝ち」とは似て非
なる別物であるように私は思う。つまり、我
々が自発的に抱く「勝ち」には「負け」とい
う欠落が必ず含まれていて、「勝ち」を求め
るほどその欠落が思いもよらない可能性を開
くことになる。
結局、バグがある思想の方がはるかに広大
である、とは言えないだろうか。ただし、そ
れを発動させるためには、人間は身を削るよ
うな努力と反省を重ねて多くの手痛い失敗に
耐えなければならない。プロ棋士たちの凛々
しい横顔がそれを示しているのかもしれない
。