たかが遺伝子
正確な表現は忘れてしまったけれど、生命
は遺伝子の乗り物に過ぎない、と言った生物
学者がいた。この考え方は、ひとつひとつの
個体、つまりこうして生きている我々ひとり
ひとりの意思や価値を軽視するように思えて
クールである。それが正しいのかどうか、も
ちろん私には判らない。しかし、この考え方
は、我々ひとりひとりを軽んじることで成り
立っている今の世の中が生み出した、流行り
の思想に過ぎないように私には思える。
我々個人はいずれ死んでしまうけれど、遺
伝子は子孫に引き継がれることによって不滅
である。つまり、個人は遺伝子を次の世代に
引き継ぐために存在する。生命の主人は遺伝
子である。だから、個人はより良い遺伝子を
残すために利己的に行動する。そんな弱肉強
食によって良い遺伝子が生き延びてゆく。こ
の考え方を押し進めてゆくと、運命は遺伝子
によっておおむね決定されているのだから、
個人の意思や努力に大した意味は無いし、そ
もそも子孫を残す以外に人生に意味は無い、
ということになる。この考え方は、役に立た
ない人間を切り捨てるのを正当化することに
なるし、ひとりひとりがわがままに粗暴に生
きるのを肯定することにもなるだろう。
この「遺伝子至上主義」は、逆に遺伝子を
操作すれば都合の悪いことは思い通りに排除
できる、という優性思想を導くことになる。
ダーウィンの進化論が社会学の分野にまで誤
用された結果、人間社会の弱肉強食が正当化
されてナチスの虐殺を許してしまった過去を
思い出しておいてもよいかもしれない。
それにしても、いずれ死んでゆく個人をな
いがしろにして遺伝子の不滅を信じるのは、
生命に対する冒涜だと私は思う。遺伝子の乗
り物として個人があるのではなくて、多様な
個人を作り出すために遺伝子が過去から未来
へ流れてゆく、というのが真実ではないのか
。要するに、たかが遺伝子、であるはずなの
だ。
これに関して言ってみたいことはたくさん
ある。まず、我々ひとりひとりの死はそれほ
ど忌み嫌い恐れるべきことなのか。そして、
個人の死にかかわらず遺伝子は永遠に続いて
ゆく、という考え方は虚構や幻想ではないの
か。そもそも、次の世代に引き継がれる遺伝
子は生命全体のものであって「私の遺伝子」
という考え方は間違っているのではないか。
そして、遺伝子に幻想を託さなくとも、永遠
は我々ひとりひとりの限りある人生の中です
でに実現されているのではないか・・・
要するに、ひとりひとりの人生に限りがあ
るのを悲観して「遺伝子至上主義」に走るこ
とは、人生をずいぶん不自由にしてしまうよ
うに私には思える。それは、前世や来世を信
じることが人生を縛ってしまうのと同じだろ
う。人生の有限を受け入れることによって本
当の自由を獲得できる、というのはとても面
白い。私にはよく分からないけれど、どうや
ら利己的になると我々は不自由になってしま
うものらしい。
ところで、大日本帝国憲法は、その冒頭で
、天皇を「万世一系」と定義しているけれど
、歴史学者によれば天皇家はこれまで何回か
断絶しているのは明らかなのだそうだ。そこ
から目をそむけて、そんな虚構をよりどころ
にして組織された大日本帝国が、それから六
十年足らずで崩壊したのは当然のことだった
のかもしれない。また、戦国大名や将軍家の
家系を眺めてみると、そこには必ず断絶があ
る。側室をたくさん抱えた殿様でさえそうな
のだから、一夫一妻制のもとで生きる我々の
血筋など、そう遠くない未来にすべて消えて
しまうのは自明のことである。
血筋自体がその程度のものなのだから、何
らかの才能が先祖から引き継がれて子孫に続
いてゆく、という考え方は、さらに根拠の無
い幻想に過ぎないことになる。音楽家一族と
して名を残したバッハ家の系図を眺めてみる
とそれが分かるような気がする。その中で、
才能ある音楽家として今も聴かれているのは
ヨハン・セバスチャン・バッハとその息子た
ちだけであるように見えるからだ。そのバッ
ハ家自体、三百年程度しか続いていないみた
いだ。
才能が遺伝するように見えるのは、せいぜ
い二代か三代、しかも、それはおそらく遺伝
子よりも環境のなせるわざなのだろう。そし
て、正常な婚姻がなされていれば、何らかの
体質が遺伝するのもその程度なのではないか
、と私は思いたい。そうでなければ、ひとり
ひとりに悪い形質が蓄積されるばかりで、我
々の健康はあり得ないだろう。
要するに、祖父母より前のご先祖様も、孫
より先の子孫も、我々とは無関係なアカの他
人である。親子は他人の始まり、という極論
(あるいは正論)を頭のすみにとどめながら
、浮世をにこやかに暖かく生きてゆきたいも
のである。血筋という虚構しか頼るものが無
い、ということは、すでに限界まで追い詰め
られている証拠なのかもしれない。
我々が持ち合わせている遺伝子には無限の
組み合わせが可能である。その、大河のよう
な流れの中から、たまたま現れた組み合わせ
のひとつが私である。それと比べると、両親
や先祖、あるいは子孫という「現れ」は、大
河のような遺伝子の、おそらく私とはまった
く別の側面なのだ。血のつながりなど幻想で
しかなくて、ひとは誰でも徹底的に孤独で自
由で「世界にひとつだけの花」だということ
がここから分かってくると思う。
そう考えると、私の「現れ」は両親を含む
周りのひとびとがその開花を助けてくれた、
環境の産物である、ということになるだろう
。だからこそ、努力して生きるのは楽しいの
だと私は思う。
遺伝子の幻想から離れて、この徹底した孤
独と自由をにこやかに受け入れて、暖かく生
きられれば、ひとは誰でも幸せになれるので
はないか。私はそんな気がしている。