大河小説の効用、その後
「何かに護られているという実感」につい
て考えることがある。
生きれば生きるほど、考えれば考えるほど
苛酷で理不尽なこの現実の中にあって、どう
して私はこうして生きながらえていられるの
か。誰でも生き続けていれば悔しいことも情
けないこともたくさん抱えこんでいるのだと
は思うけれど、それでもこうして健康な心身
を保ちながら、自分で思うほどには孤独でも
なく、しかも写真を撮り続けながら音楽を聴
きながら本を読みながら私はこうして生きて
いる。それがとても不思議に思えることがあ
るのだ。
もしかしたら、人生は目の前にぶら下げら
れた人参めがけて走り続ける馬車馬のような
ものなのかもしれないけれど、それでも美味
しそうな人参、つまり希望を自分の目で見つ
けて生きてゆけるひとは幸せなのだろうと私
は思う。
むろん私の目の前にも美味しそうな人参が
いくつかぶら下がっていて、それを口にする
ために私はこうして走り続けているような気
がする。ただ、その人参めがけて走り続ける
ためには、気力や体力だけではなくて「何か
に護られているという実感」がどうしても必
要になる。悲しみや苦しみに負けないために
は決して失われることのない、何か暖かいも
のが必要なのだ。
それは結局、たくさんのひとの真心が残し
てくれた思い出なのだけれど、そこに生命を
与えているのは何かしら具体的で物質的な事
象である。
少年時代の私にとって、それは音楽だった
と思う。決して私に才能があったわけではな
かったけれど、小さな音楽教室でオルガンを
弾いたりブラスバンドでトランペットを吹い
ていた時に私を包んでいた音が今も私を護っ
てくれているような気がする。それは、自分
が出した音ではなくて仲間が一緒に出してく
れた音である。その音に私が参加できたとい
うことが何よりも大切だったように思う。そ
の時の暖かく厚みのある音は音でないものに
姿を変えて、今も私のすぐそばにある。
音楽を演奏することを止めてしまった今も
、それを忘れないために私はずっと音楽を聴
き続けているのだろう。心身を病んでいた頃
にめぐり会った漢方薬の薬剤師さんから言わ
れた「ある種のひとにとって音楽はご飯と同
じくらい必要なものなんです」という言葉の
意味が、私はようやく実感として分かってき
たように思う。
そんなわけで、こうして何かに護られてい
るという実感があると、たとえ何が起ころう
とも自暴自棄になることは無いし、辛い自分
、浮かれている自分から離れて自分や世界を
眺めることができる。要するに、どんなもの
も私の自由を侵すことはできないのだ。そん
な自由に嫉妬する奴もまれに現れるけれど、
そんな奴は取るに足らないのでやり過ごせば
よいだけのことである。
そこに写真がどうかかわっているのか、私
にはいまだによく分からない。もしかしたら
、それは私の自由をさらに鍛えて他人と分か
ち合うためのメディアなのかもしれない。ラ
イプニッツではないけれど、私にとって写真
は「モナドの窓」になるのだろう。
そんな極限の自由の中では、ひとつの方向
にしか流れてゆかない時間は意味を失ってし
まって、過去の記憶も未来からの予感もすべ
てが等価になる。ただ、時間を無くしてしま
った自由とはあまりにもアナーキーに過ぎる
わけで、そんな世界では時間に沿って展開す
る音楽は存在することができなくなる。その
アナーキーに必要な歯止めをかけるために「
物語」が必要になるのだと思う。
幼い頃からそうだったけれど、物語が音楽
と同様に私をずっと護ってくれたと思う。そ
れからずいぶん時間が過ぎて大人になって、
私はようやく大河小説を読み続けることがで
きるようになった。かつてよりも繊細になっ
た私の感覚を護るために、私は大河小説とい
う新たなお守りを必要とするようになったの
だろう。それはもちろん、小説家という他者
が悪戦苦闘して生み出したものである。そん
な、苛酷な試練を経て今ここに存在する長大
な物語に浸っていると、現実の世界がよく見
えるようになるし、前に書いたように辛い自
分、浮かれている自分から離れて自分を見る
こともできるようになる。この快楽が大河小
説の効用なのかもしれない。