脳天気

私事ではあるけれど、いつのまにか四十代 のなかばを迎えて、たいていのひとなら「も う歳か」と思うような年齢になったはずなの に、私にはまったくその自覚が無い。髪や鼻 毛に白いものが少し混じるようにはなったけ れど、このくらいの白髪ならべつに取り立て て気にするほどのことでもなかろう。瞬発力 は確かに衰えてきたけれど、二十代の頃の気 力や体力の方がむしろ異常だった、という思 いの方が強いので、これでようやくまともに なってきた、という安堵の気持ちが私にはあ る。その、異常な気力や体力が私自身、うっ とうしくて仕方が無かったし、そのおかげで ずいぶん周りにも心配をかけてしまった。そ れが若いということなのかもしれないけれど 、今思い出すとやはり恥ずかしい。
 三十代に患ったうつ病と腰痛が完治してか ら私は特に病気はしていないし、気力も体力 も二十代の頃よりもずっと充実している実感 がある。仕事で山歩きをしても翌日に疲れが 残ることは無いし、休日になればカメラを持 って飽きずに盛岡の町はずれを歩き続けてい る。時折ささやかな旅にも出掛ける。撮る量 は明らかに増えている。以前よりも本は読む し音楽は聴くし料理も作る。相変わらずいろ んな妄想が果てしなく湧き出てくるけれど、 かつてのようにそれにおびえて心を病むこと は無い。自分の妄想を楽しむ余裕が今の私に はある。この余裕を身につけてしまえばどん な時でも退屈することは無いし、お金に余裕 が無くとも人生は愉しい。それでも、それな りに気苦労があるのか、以前より私はやせて しまった。健康診断の折りに「この体重を維 持して下さい」と言われたので、それも良か ろうと私は思うことにしている。おかげで中 年太りを回避できたのは確かである。
 初対面のひとから十歳くらい年下に見られ たり、あるいは実際よりも少し年上に見られ たり、要するに私は年齢不詳で正体不明の理 想的な男になったみたいだ。まことに結構な ことである。そのせいなのかどうか、私は相 変わらずたくさんの友人に恵まれている。も しかしたら、孤独になるほど友人は増えるの かもしれないし、孤独になるほどひとからは 信頼されるのかもしれない。通勤の途中や旅 のさなかで、私はしばしば小学生の女の子に 声を掛けられたりする。私がかどわかしてい るように見えるので周りの大人は不審な眼差 しを向けて通り過ぎてゆくけれど、実態はそ うではない。
 そんな脳天気な中年男になってしまった私 から見ると、同年代の男たちが寄るとさわる と病気の話をしているのが奇妙に思える。つ いこの間まで若さを謳歌していた連中が、こ れほどまで変わってしまうものだろうか、と 信じられない思いがする。連中の大半が、い つのまにか絵に描いたような中年男になって いるのが不思議なくらいだ。
 彼らが若さを謳歌していた頃、私は根を詰 めて学者の卵をしていたり、あるいは病気に 倒れて辛い思いをしてじっと息をひそめてい た。いずれにせよ、ひと並に若さを謳歌する 、ということが私にはどうしてもできなかっ た。その頃は、自分の若さが憎らしいくらい にうとましかった。天才でもない限り、表現 にとっても人生にとっても、若さは雑音以外 の何物でもあり得ない。これは、私の十代の 頃から変わることの無い信念である。若さが もたらすセンチメンタルなものをわけも無く 憎悪して、若さを別のものに変換しようとあ がきながら、あの時代を私は駆け抜けてきた のだと思う。楽しいこともたくさんあったけ れど、辛いことの方が多かったような気がす る。
 そこからこうして抜け出て、今、私は山の てっぺんから海を眺めるような気持ちがして いる。最近、ある恩人に言われたように、歳 を取った気がしないのは、私がまだ何もして いないからなのだろうと思う。他の男よりも 二十年も遅れて、私はようやく出発点に立っ ている。これからいったい何が始まるのか、 もちろん悪いことが起こることはあり得ない のだが、これが、生まれ直すような気持ち、 というものなのだろうか。
 何かしら不安が無ければうまく生きてゆけ ない。他人には耐えられないくらいの自由が なければ本領を発揮できない。そんな生き方 が可能なのは、もちろんたくさんのひとが私 に厚い信頼を寄せてくれるからである。これ は本当に幸せなことなのだけれど、それは誰 にも理解されない孤独を生きるということで もある。それでも、同年代の中年男の話を聞 いていると、家族や収入に恵まれてはいても 、その希望の無さに私は本当に驚いてしまう 。それが世の中の普通だというのだから悲し くなる。
 結局、私は私なりに働き続けて、今までど おり、休日にはカメラを持って歩き続けるだ けである。これをシンプルライフと呼ばずし て何と呼ぶべきか。こんな単純なことは、こ とさら他人に誇るほどのことでもなかろう。 それでも、写真をこころざすひとたちを見て いると、気になったものは何でもかんでも写 す、というそれだけのことが、何で彼らには できないんだろう、と私は不思議に思うばか りである。もしかしたら、このことが脳天気 に生きる秘訣かもしれないのだ。皆いったい 何がそんなに怖いんだろう、と私は思う。  うつ病に苦しんでいた頃、友人が私の手相 を見てくれたことがあった。「あなたは自分 でも嫌になるくらい長生きしますから、死に たいなんて思ってはいけません」おそらく勇 気づける意味で言ってくれたのだと思うけれ ど、それを私はずっと忘れずにいる。
 しかし、うつ病が治ると、生きていること が本当に楽しくなる。腰痛が治ると、自分の 身体が本当に愛しくなる。それは、自分が自 分であることが信じられなくなるくらいなの だ。思い返してみると、この不思議な思いは 私に物心がつく前から宿っていたし、妙な言 い方だけれど、この不思議な人生は死ぬまで ずっと続くものらしい。これを「恩寵」と言 うのだろうか。要するに、すべてが祝福され ているのだ。孤独でさえもたくさんのひとの 善意に支えられて存在している。それは、森 のざわめきや川のせせらぎを私に思わせる。 この、柔軟な孤独がこれからどんな形をとる のか、そこにどんなひとが関わってくるのか 、それを私はとても楽しみにしている。
 すべてがこれから始まるのなら、この脳天 気な人生を私は謙虚に大切に歩み続けたい。 それが私の義務なのだと思う。それにしても 、結局、馬鹿は死んでも直らない、というこ となのだろう。


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