終わりの夏、始まりの夏

今年もまた暑い夏がやって来た。しかし、 我々のクソまじめさはこの暑さをもってして も改まる気配が無い。今は、以前にも増して 偽りのマジメさが幅をきかせている世の中な ので、私は「マジメも休み休みやれ」と放言 して、この暑いさなかには洗濯物や布団を干 しながら汗をかきかき昼寝をしていたい気分 である。
たとえば、あの大地震からもう半年近くが 経つのに、いまだにたくさんのひとが学校の 体育館で避難所暮らしをさせられている。が れきの撤去も進まない。たくさん集まった義 援金の配分も進んでいないらしい。不思議な ことに、それを憂慮しているひとの意見はま ったくと言っていいほど取り上げられること が無い。被災者の個人的な美談が伝えられる ばかりで、世の中は本当に「復興」に向かっ ているのだろうか、と私は思う。あの、無礼 な放言の後に辞めてしまった復興担当(笑) 大臣のように、地震の被害にとりあえず無縁 だった連中は、偽りのマジメさを装うだけで 「復興」を進める気持ちなんかまったく持っ てはいないのではないか、と私は疑っている 。彼らはお金を絞り取れる所からは絞り取っ て、被災者や被災地は見捨てるつもりでいる のではないか。数年前、自己責任の美名のも とに、障害者や派遣社員を切り捨てた世の中 が再び繰り返されるように私は思う。
 あるいは、もはや我々には「復興」を進め るだけの力は精神的にも経済的にも残されて いない、ということなのだろうか。バブルが 始まってから二十五年が過ぎて、我々はそこ まで硬直して衰弱してしまったのかもしれな い。要するに、我々ひとりひとりの力で世の 中を住みよくしてゆく意思が決定的に失われ ている。虚飾に慣れ切って、我々はもはや未 来のことを思いやることができない。手塚治 虫のマンガに出てくる、うつろな目をした愚 かな市民の群れが今の我々かもしれない。
 仕事も家も失って避難所でひまを持て余し ている被災者の間で、アルコール中毒やパチ ンコ中毒が増えているという話も聞いた。そ れは、ひまを持て余して廃人に転落してゆく ひきこもりの連中と同じではないか。要する に、仕事を失ってしまうと我々には成すべき ことが何も無い。何もできずに崩れてゆくだ けである。これを愚者の群れと言わずして何 と呼ぶべきか。地震の被害と無縁だった我々 も、いつそんな生活に転落してしまうのか誰 にも分からない。これが、今までの虚飾の代 償なのだろう。
 仮に、今回の大地震が起こらなかったとし ても、もはや、この文明は滅びるしかない。 この地震は、その予告に過ぎないのかもしれ ない。その破局は、おそらく我々の世代のう ちにやってくる。少し考えればそれは誰にで も分かることなのに、それに目を向けるひと は本当に少ない。この期におよんでなお、自 分だけは安全な場所にいていい思いをするこ とができると考えている連中が多すぎる。
 原子力発電所の事故にしても、それが終息 する見通しさえ立っていないのに、他の原子 力発電所の運転を再開しようというのはまと もな人間の考えることではない。仮にそれが 無事故で運転を続けるとしても、行き場の無 い、何万年も毒が消えないゴミがそこから大 量に生まれるのである。それを押しつけられ る子孫たちから我々が恨まれるのは火を見る よりも明らかである。それを恥ずかしいと思 わずにのうのうと生きている我々は、すでに 狂っているのではないだろうか。
 仮に極楽というものがあるとしても、我々 の世代は死んだ後に誰もそこに行く資格が無 い。そんなやっかいなゴミを残してぜいたく をしたという理由だけで、我々は皆、死んだ 後は地獄に落ちて責め苦を受けるだろう。話 がずれるけれど、今の世の中は昔のひとが極 楽に思い描いた以上の物質的な豊かさに恵ま れている。生きている間にそれを存分に味わ った上に、死んでからも極楽に行こうという のはいささか思い上がりが過ぎるというもの である。死後の苦しみと引換えにこの世の豊 かさがある。そう思っていれば間違いが無か ろう。その地獄は、もしかしたら生きている 間にも現れるかもしれない。
 話をもどすと、原子力発電をこのまま続け るのかいずれ止めるのか、その方針さえきち んと示さないままに、原子力発電所の運転を なし崩し的に再開しようとするあたりに、我 々の甘えの体質がよく現れているように私は 思う。その甘えがいつまで通用するのか、こ れは面白い見ものと言えないことも無い。た だし、この成り行きを外国はもちろん、後世 のひとびとも注視していることを忘れないで おきたい。
 そもそも、核分裂のエネルギーでお湯を沸 かして蒸気を作り、それでタービンを回して 電気を作るという原子力発電の原理は余りに も非効率と言うか幼稚ではないのか。それを 「十九世紀と二十世紀の技術の無茶な結びつ き」と評した科学雑誌の記事を私は読んだけ れど、我々よりも一段進んだ知性からは、こ の、原子力発電の原理は悪い冗談にしか見え ないだろう。電気の他に大量の廃熱を放出し て、始末におえないゴミや核兵器の原料を生 み出すこのプラントを「クリーンエネルギー 」と称するに至ってはまさに噴飯ものである し、それにだまされて虚飾に溺れてしまう我 々は、まさに愚者の群れである。そんなもの を使い続けてきたこの文明に、未来を生きる 資格は無いのだろう。
 そんな幼稚な原子力発電なるものを最初に 思いついたのは誰なのだろう。私の不勉強と は思うけれど、それが広く知られていないの は不思議である。軍事技術の転用なのだろう か。私には分からない。これだけの危険を承 知の上で、この技術にこれだけのお金が集ま るのはどうしてなのか、それも私には分から ない。臭いものにはフタをして、都合の悪い ことは先送りにして、汚れ仕事は弱者に押し つけて、目先の安楽にうつつを抜かしてきた 我々は、歴史上まれに見る愚かな市民として 後世に名を遺すことになるのだろう。
 原子力発電所を止められないのは、過剰な 電力が無いと今の情報通信システムが維持で きないからだ、という意見を私は聞いたこと がある。それが本当かどうか私には判らない けれど、もしそうなら、我々は情報の海に溺 れてほろんでゆく愚者の群れに過ぎないこと になる。いつの間に、我々はこんなにエネル ギーを浪費するようになってしまったのだろ うか。その分、我々は精神的にも肉体的にも 確実にひ弱になってしまった。
 それでも、こんな世の中でも、しぶとくし たたかに生き続けている人間は確実に存在す る。そんな少数の人間にとっては、これから が我が世の春かもしれない。こうして厳しい 世の中がやって来るのを、どこかで心待ちに していたようなところがある。何事も厳しい のが当たり前だと思っていれば、逆に楽しい ことが増える。虚飾に溺れずに豊かさを楽し むこともできる。世の中がどう転がろうとあ まり関係が無い。私は笑顔で生きてゆける。 幸せなことである。
 そんなふうに私が平然と生きていられるの は、少年時代に観た名作アニメ「未来少年コ ナン」のおかげだと思う。文明の破局がやっ てきても、少数の人間は確実に生き残って、 豊かな自然と静けさを取り戻した世界で新た な希望をかなえるために奮闘する。その新し い世界には、古い世界の暗い影も始末におえ ないゴミもきちんと存在していた。あの物語 が、今、形を変えて、私の中でひそかに始ま っているのかもしれない。
 それでも、そんな破局が訪れる前に、今の 過剰な豊かさを脱ぎ捨てることができるのな らば、我々はいつのまにか失ってしまった活 力を取り戻せるのではないか。私はそんな気 がしている。それは、我々ひとりひとりが孤 独なままで成すべきことなのだろう。もっと も、それで始末におえないゴミが無くなるわ けではないのだけれど…


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