手紙
前にも書いたことがあるけれど、作家フラ
ンツ・カフカの全集は全部で十二巻あって、
その半分近くが友人や家族、そして恋人たち
に宛てた手紙で占められている。カフカとい
うひとは職業作家ではなくて勤め人だったわ
けだが、彼は、その貴重な自分の時間を、お
そらく小説を書く以上の熱心さで手紙を書く
ことに費やしている。それが非職業作家の特
権なのかもしれないけれど、時として私には
、カフカが発表のあてもなく書き続けた小説
よりも、恋人がずっと保管していたおかげで
こうして後世に伝わっている手紙の方が、は
るかに魅力的で面白く思えることがある。カ
フカというひとは、その手紙のようにチャー
ミングで愛すべき男だったのだと私は思う。
不遜かもしれないけれど、彼の手紙を読み始
めると、私は何だかとてもこそばゆい。
ただ、カフカが恋人に宛てた手紙は普通に
考えられている恋文とはずいぶん肌ざわりが
違うもので、そこには甘い睦言も愛の告白も
現れない。私の手許にあるのは、カフカの短
編のチェコ語への翻訳者でよその奥さんだっ
たミレナ・イェセンスカに宛てた「ミレナへ
の手紙」なのだが、これは、恋人の前で少年
に戻ってしまったカフカの、大切なひとへの
不器用な語りかけであるように私には思えて
くる。カフカはミレナよりもずっと年長だっ
たから、もちろん彼女を細やかに思いやるこ
とも忘れてはいない。そのへんの微妙なバラ
ンスが、私をこそばゆい気持ちにさせる最大
の原因かもしれない。
その魅力的な語りかけは、いつのまにかカ
フカとミレナの間に広がる別世界の描写に移
行してゆく。その切なさは、読む者にそれが
恋文であることを忘れさせてしまうようなと
ころがある。そのへんに小説家としてのカフ
カの非凡な力量があるのかもしれない。ただ
、その描写があまりにも精密なものだから、
これを読んでいると私は少し息苦しくなって
くる。二匹の仔猫が荒野の中で寄り添ってい
るのを眺めるような、かなしい気持ちになる
こともある。
それでもカフカの恋人たちは、こんなふう
に彼の手紙を何よりも大切に守り通して後世
に伝えたのに、カフカ自身は恋人から受け取
った手紙はすべて処分してしまったらしい。
「ミレナへの手紙」にはミレナがカフカに宛
てた手紙は一通も含まれていない。だから「
ミレナへの手紙」は結局カフカの一方的な語
りかけでしかなくて、恋人どうしの語り合い
にはなっていない。それを忘れてはいけない
ような気がする。
それを考えれば、カフカはやはりエゴイス
トだった、ということになるのかもしれない
。自分の小説を発表することに熱心でない上
に、自分の未発表原稿を死後すべて焼き捨て
てほしい、と言い続けていたこの男はいった
い何者だったのか、私にはよく分からない。
カフカは理解あるたくさんの友人に恵まれて
いたのだから、彼らが自分の原稿を焼き捨て
たりはしないことをよく知っていたはずであ
る。それを見越して勝手に病気になって早死
にしてしまうカフカという男はひとが悪い。
究極の甘ったれと言えなくもない。それでい
て、恋人から受け取った手紙だけは自分で処
分してから死んでしまうのだから始末が悪い
。いったいカフカはどんなつもりだったのだ
ろうか。
おそらく、ミレナがカフカに書いた手紙は
、カフカが書いたものに劣らず魅力的だった
はずである。それを保管しておく方法はいく
らでもあったのに、カフカはいろんな事情で
ミレナと離れてしまうとあっさりそれを処分
してしまった。べつに手紙を残すことがミレ
ナの迷惑になるから、という理由ではないよ
うに私には思える。彼女への思いを断ち切る
ため、というのもおそらく嘘である。これは
、思いを断ち切れるような恋ではないのだ。
この暖かい思いはふたりの中にずっと生きて
いた。「ミレナへの手紙」の他に「カフカの
恋人 ミレナ」という本を読めばそれが分か
る。それが分からない奴に恋をする資格は無
い、と今の私には断言できる。
きっと、カフカはミレナからもらった手紙
を誰にも読ませたくなかったのだ。こんな素
敵な思いは絶対に他人に知られたくない。そ
れは自分ひとりの中に仕舞っておきたい。そ
んな思いでカフカは恋人から受け取った手紙
を処分してしまったような気がする。カフカ
は、おそらくすべての手紙をくまなく暗記し
ていただろうし、封筒や便箋や彼女の筆跡と
いった「物」にこだわる性癖も無かったらし
い彼にとっては、手紙という現物が無い方が
恋人ミレナに対していつまでも誠実でいられ
たのかもしれない。けれど、そんなカフカは
果して本当に誠実な男だったのかどうか、私
にはよく分からない。
話を現在の我々にもどすと、恋人からもら
った手紙は読んだ後すべて処分する、という
男は私の友人にもいる。しかし、それがいさ
ぎよいことなのかどうか、私には分からない
。もちろん私にはそんなことはできない。カ
フカのように、手紙のすべてを暗記してしま
う力は私には無いし、封筒や便箋や、彼女の
筆跡がとても愛しく思えて私にはこれを捨て
去ることは絶対にできない。そんな、かつて
もらった手紙の中に生きている私自身を愛し
くも思える。もちろん、それを日常的に読み
返すことはしないけれど、それぞれ別の場所
に保管してある古い手紙を何かのきっかけで
読み返すことはある。
そんな古い手紙の中に、今の自分でなけれ
ば受け取ることができない大切なメッセージ
を見いだすことがある。それを受け取ること
ができなかった当時の自分を歯がゆく思うの
は当然だけれど、それを見越して私にそんな
言葉を伝えてくれた彼女たちに私は感謝する
ばかりである。
未練がましいことをするな、と言う奴もい
るだろうけど、もしかしたら人生というやつ
は、最後まで未練がましいものかもしれない
ではないか。過去の自分を愛しむことを止め
てしまえば、これからやってくる未来を愛す
ることもできなくなる。それはあまりにも淋
しい。反省はするにしても、後悔することな
く過去を愛しんでいれば、それは必ず希望を
持って未来に再び現れる。
私は、心のこもった手紙をたくさん書いて
くれた女性とは縁を切ったことが無い幸せな
男なので、古い手紙を読み返すことはべつに
未練がましい営みではないのである。手紙の
送り主たちも、苦笑いしながらそれを許して
くれるような気がする。愛しい思いは消える
ことなく穏やかに成熟してゆく。古い手紙は
、その間に私自身も成長したことを教えてく
れる。
最後に付け加えるなら、カフカはあまりに
も性急に過ぎたのではないか、と私は思う。
熱に浮かされたように矢継ぎばやに手紙を送
りつけて、それが終わってしまえば相手から
受け取った手紙を処分して自分だけ早死にし
てしまうのは卑怯である。「ミレナへの手紙
」のような、こんなに美しい恋はこれで終わ
るものでは絶対になくて、さらに美しい続編
が時を経て生まれたはずなのだ。それを実現
できなかったカフカを誠実な男と呼ぶことは
できないような気がする。そのための抑制が
カフカには欠けていたのかもしれない。
さらに余談ながら、そんな抑制に快楽を見
いだして幸せな生涯を送った南方熊楠を私は
思い出している。熊楠と恋人多屋たかとの短
い往復書簡の方が、カフカの長大な語りかけ
でしかない「ミレナへの手紙」よりもはるか
に微笑ましくて読む者の気持ちを暖めてくれ
る。熊楠も多屋たかも、それぞれ別のひとと
幸せな結婚をした後も、かつての恋人から受
け取った恋文を隠すこともなく大切に保管し
ていた。生涯にわたって続く幸せな恋とは、
そんなふうに風通しがよいものではないかと
いう気がする。