異邦人

池田晶子さんが四十代、つまり亡くなる数 年前に書いた文章を集めた「魂とは何か」を 読み返してみた。池田さんの文章はとても面 白いのだけれど、読み続けているといささか くどい印象もあって、それは哲学というもの が、あまりにも単純であからさまな真理を語 ることに尽きているからではないか、という 気がしてきた。
 それを「常識」と言い換えることもできる だろう。「常識」とは「あたりまえのこと」 である。「あたりまえのこと」を探究して語 ろうとするのが哲学である、と私は勝手に思 っている。
 だから、常識がその柔軟さと奥深さを失わ ずに健全に息づいている世の中ならば、特に 哲学に出番は無いということになるだろう。 哲学は、象牙の塔にひきこもっている方が健 全であるかもしれないのだ。そんな世の中で は、何かのはずみで常識がゆらいでしまうよ うな体験をしてしまった少数のひとだけが哲 学をひもとけばよいということになる。池田 晶子さんのように、常識を深く考え抜いて世 間に広く語るひとが現れた、ということ自体 が、常識がゆらいでいる今の世の中をよく現 しているように私には思える。
 しかし「あたりまえのこと」というのはミ もフタも無く単純なものなのだから、それを 深く探究すればするほど、哲学は円環のよう に最初の問いに戻るしかなくなるのではない か。その苛立ちが、もしかしたら池田さんの 生命を縮めてしまったのだろうか。「正しい ことは身体に悪い」というビートたけしの言 葉を私は思い出したりする。
 しかし、その円環を回りながら、写真家や 芸術家は手を替え品を替えいろんな作品を生 み出すことができる。円環をいつのまにから せんに変えて、そこを昇ってゆくことができ る。
 もっとも、自分では気づかないまま、ひた すらそのらせんを回りながら落ちてゆくだけ 、という連中が世の中には多いような気がす る。自分のことを棚に上げれば、そんな連中 を眺めているのは面白い。面白いけれど、自 分のスタイルに陶酔している奴を見るのは不 愉快である。「シンプル・イズ・ベスト」と いう森山大道さんの言葉は、そのらせんを昇 るための心構えだと私は思う。
 しかし、そこに快感などあるわけも無くて 、いったいオレは何をやっているんだろう、 と独りで呆然とたたずむのが実態である。そ こをあまり楽に回らないようにしよう、と決 意するしか私には打つ手が無い。本当にどう しようもない。
 アインシュタインがそんな孤独について語 っていたのを読んだのは私が二十代の頃だっ た。僣越ながら、アインシュタインが言うと おり、この、開かれた孤独は歳を取ると次第 に甘美なものになってゆくようである。この 、開かれた孤独は私を決定的に護ってくれる 。誰も私を傷つけることはできない。世界が クリアに見えてきて、私はひとの善意をより 深く受け取れるようになる。
 ようやく私は異界への移住を終えたのかも しれない。異邦人の自覚をようやく揺るぎな いものにしたということだろうか。ただし、 異邦人として私はありふれた平凡人である。 それを忘れてはいけない。そんな、平凡な異 邦人にもこの世界で果たすべき役目があるよ うに思う。
 この文章を書くために、私はカミュの「異 邦人」を何十年ぶりかで読み返してみた。十 代の頃には気づかなかった面白さがここには ある。その、強烈な陽射しと乾いた空気が私 を魅惑する。発表から六十年近く過ぎてもま ったく古くならない翻訳も奇蹟的だと思う。 窪田啓作氏のこの訳文は、これだけで文章の 素晴らしいお手本になる。
 そして、久保田早紀の名曲「異邦人」が入 ったアルバム「夢がたり」もひさしぶりに聴 き返してみた。テレビではひさしぶりに彼女 の近況が伝えられていた。私を魅惑する歌を 歌ったひとが、今もひっそりと幸せに、しか も成熟して歌い続けている。これは本当に嬉 しいことである。それにおよばないのかもし れないけれど、私もらせんを昇るために果て しなく歩き続けるだけである。その歩みの中 で、たくさんのひとと暖かい息吹を交わすこ とができれば本当に幸せだと思う。


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