渡辺一郎というひとが書いた「幕府天文方
御用 伊能測量隊まかり通る」という本を私
は読み始めている。伊能忠敬はよく知られて
いるとおり、今から二百年前、江戸時代後期
に日本中の測量を行って正確な地図を作った
ひとだけれど、この本は伝記というよりも、
彼の測量家としての足跡を追った労作だと思
う。
伊能忠敬の膨大な旅日記を著者が綿密に追
跡する形でこの本は構成されている。その「
測量日記」には、地元の役人との折衝とか、
宿の待遇とか様々なことが記されている。こ
の本を読み進むうちに、伊能忠敬の業績の他
に、他ではなかなか接することができない江
戸時代の気配のようなものをうかがうことが
できる。それがとても面白い。著者が言うよ
うに、この日記は伊能忠敬が後世に残すため
に書きためていたようなおもむきがある。伊
能忠敬はなかなか複雑で魅力的なひとだった
みたいだ。この本を読んでゆくとそんな気が
してくる。
伊能忠敬は若い頃から向学心に燃えるひと
だったらしいけれど、四十代で隠居するまで
は商家の主人として家業をもりたてていたの
で、彼が測量家として活動を始めるのは五十
代の半ばになってからだったのだそうだ。当
時の平均寿命と、旅が今とは比べ物にならな
いほど苛酷だった時代を考えれば、彼の後半
生の業績は超人的としか言いようが無いだろ
う。
しかし、彼にとって、これは決して遅すぎ
た出発ではなかった。この本を読んでゆくと
、伊能忠敬の前半生の経験が無ければこの偉
業もあり得なかったことが分かってくる。商
家を成功に導いた実績や老練さがこの旅には
どうしても必要だった。また、それが、彼の
個人的な望みだった地図の制作という作業を
、江戸幕府の公共事業にまで拡大させた力に
もなったことが分かる。
それでも、伊能忠敬の死後に完成したその
地図が、当時どのように使われたのかはよく
判っていないのだそうだ。江戸幕府や諸藩が
正確な地図を必要としていたのは確かだとし
ても、これほど素晴らしいものが本当にその
時代に必要だったのかどうかは疑わしい、と
著者は述べている。この地図が本当に役に立
つのは、幕末以降の動乱の時代なのだけれど
、伊能忠敬や彼を支援した幕府はそれを見抜
いていたのかもしれないし、あるいは単に、
これは伊能忠敬の執拗で魅力的な人柄がなし
遂げた偉業ということになるのかもしれない
。私は現物を見たことは無いけれど、彼が作
った地図は美術品としても超一流の美しさを
持っている。
基本に忠実に、納得のゆくまで、そして時
には生命を危険にさらしてまで彼の一行は測
量を続けている。江戸幕府の強力な後ろ楯を
得ていたから、伊能忠敬は庶民として旅をし
たわけではないのだけれど、この本を読み進
んでゆくと、測量の他に、彼は行く先々の風
土や人情を冷静に見聞していたような印象が
ある。彼は旅を楽しむ余裕も失っていないか
らだ。そうであれば、伊能忠敬は昭和の民俗
学者、宮本常一に似ているという意見も確か
にうなずけるところがある。実は、今になっ
て私が伊能忠敬の本を読み始めたのは、宮本
常一が日本中の旅のさなかに撮り続けた写真
を集めた「宮本常一が撮った昭和の情景」と
いう写真集をこの一年の間ずっと眺めていた
からだ。
この写真集の解説には森山大道さんの名が
登場している。森山さんは以前、宮本常一の
写真と日記を集めた本に「この人は、伊能忠
敬みたいだね」という題の文章を寄せていた
のだそうだ。これは、かつて、日本中をくま
なく写し歩こうと決意した森山さんにふさわ
しい言葉のように思える。ともあれ、伊能忠
敬は測量家として日本中を歩いて正確な地図
を残し、宮本常一は民俗調査のために日本中
を歩いて膨大な文章と写真を残した。一方は
天と地を観測する科学者として、もう一方は
ひとびとの暮らしと風土を調べる民俗学者と
して、アプローチの方向は違うけれど、それ
がどこかで交差していると考えてみるのは面
白い。
たとえば、宮本常一の文章と写真に明晰さ
と高度なセンスがあふれているように、伊能
忠敬の地図には驚くべき正確さと美術品とし
ての美しさがある。今はやりの軽薄な「個性
」なんてものはふたりの仕事には存在しない
。それが本当に素晴らしい。
そんな、森山大道さんがしばしば口にする
「無名性」に徹したこのふたりが残した地図
と写真と文章は、作者の死後、ともに思いが
けない強大な力をふるうことになる。そこに
、私は誠実さと高度なセンスによってなし遂
げられた「無名性」の仕事の凄さを見いだし
たい。そして、そんな仕事を残したふたりの
人生は、はかり知れない深い喜びに満ちたも
のではなかったろうか。
それにしても、アジェやラルティーグ、そ
して宮本常一という私が憧れてやまない写真
家は皆、そんな「無名性」に徹したひとばか
りである。三人とも、膨大な写真を撮り続け
てはいても、存命中に「写真家」としての扱
いを受けたことはほとんどなかったし、自分
を「写真家」とも思っていなかったひとであ
る。そして、それは本人にとって残念なこと
ではまったくなかったのである。
美しくて素直なうえに、作者の息吹と人柄
が反映されていて、誠実さと高度なセンスに
支えられている。そしてその時代の貴重な記
録にもなっている。写真とはそれ以外の何物
でもあり得ないと私は確信している。それは
、宇宙や人間の謎をリアルに提示することが
できる。ただし、それを実現できるひとは本
当に少ない。その意味で、写真は簡単ではあ
っても、実は特別なひとにしかできないこと
だと私は思っている。
写真は第二芸術だ、と言った文学者がいた
けれど、私もまったくそのとおりだと思う。
「芸術」としての写真は軽薄で安易なまがい
ものでしかあり得ないのだから、私はもうそ
んなものにつきあわされたくない。二流三流
のまがいものだからこそ「芸術としての写真
」とか「個性を表現する写真」は誰にでもで
きることなのだろう。ただし、そのまま思い
上がって写真に関わっていると人生が荒廃す
る。それを私は忘れたくない。
話を江戸時代にもどすことにする。
江戸時代は外国とのつきあいを絶って、ひ
たすら内向きだったような印象が強いけれど
、今の閣僚や官僚に当たる幕臣、あるいは伊
能忠敬や間宮林蔵といった学者とも実務家と
も言えるようなひとびとの政治や外交に関す
るセンスは、今の政治家や学者とは比べ物に
ならないくらい豊かで鋭かったように私には
思えてくる。これは以前、私が小笠原の歴史
を調べた時にも感じたことだった。外国に留
学したことも無かったひとが、どうしてこれ
ほどの見識を持って仕事ができたのか、それ
を私は知りたいと思う。
田中優子先生の本にも、江戸時代は今考え
られているほど外国に対して閉ざされた社会
ではなかった、という記述がしばしば出てく
る。我々が江戸時代に学ぶべきことはたくさ
んあるけれど、もちろん江戸時代はユートピ
アではなかったし、その平和と繁栄は、かな
りの無理をすることによって辛うじて保たれ
ていた、ということもそこに記されている。
それでも、平均寿命が短くて、何をするにも
今よりも格段に厳しい時代だったにもかかわ
らず、才能のあるひと、勇気のあるひと、努
力するひと、そしてその結果として超人的な
偉業をなし遂げるひとは、もしかしたら今よ
りも多かったように私には思えてくるのだ。
どうしてだろうか。
今でも、テレビをつければワンパターンの
時代劇がたくさん放映されている。テレビを
離れてよくよく私の周りを見渡してみても、
日本は相変わらず江戸時代のままではないか
、と思えることがたくさんある。科学技術の
発達にかかわらず、江戸時代の悪習だけは今
もしぶとく残っていて、それがこの十年くら
いでようやくきしみ始めている。あるいは、
江戸時代の遺産を食いつぶして成り立ってき
たこれまでの世の中が、ついにネタ切れにな
って賞味期限を迎えていると言ってもよいの
かもしれない。
その混沌の中、この先、たやすく希望が見
つかる世の中になるとは私は思わないけれど
、伊能忠敬も宮本常一も、あるいはアジェも
、今よりも格段に厳しい時代を生きたことは
確かである。大金持ちだったラルティーグに
せよ、厳しい時代の中で、何があろうと生活
を楽しんで写真を撮る意思を持ち続けたのは
確かである。
それを思えば、今の世の中を生き続ける覚
悟なんて案外簡単なことかもしれない。何事
にせよ、時間をかけてしぶとく綿密になし遂
げようとすること。そして、虚飾を追うこと
なく、怠惰になることもなく、もちろん働き
過ぎることもなく、できる範囲で生活を大い
に楽しむこと。お金持ちでなくともそれは可
能なことだと私は思う。それがやりやすかっ
たのならば、江戸時代はもしかしたら今より
も面白いことが多かったのかもしれない。