期待 忘却 その後

私事ではあるけれど、この「無限通信」で 「期待 忘却」という文章を書いたのはいつ 頃だったろうか。もう十年くらい前、私がま だ長野県上田市でうつ病に苦しんでいた頃だ ったと思う。この「期待 忘却」というのは モーリス・ブランショの小説のタイトルなの だけれど、いまだに私はこの本を読むことが できなくて、押入れの奥に仕舞ったままにな っている。
 日頃から私は「何事も忘れられなくて困っ ている、不意にささいな記憶が生々しくよみ がえってきて苦しめられる、物事をうまく忘 れてしまえるひとがうらやましい」とか偉そ うなことを言っているのだけれど、実は私こ そが思い出したくないことをひとよりもたく さん抱え込んだあげく、それに無理やりフタ をしたまま日常をやり過ごしているのではな いか。そんな思いにとらわれることが最近は 多くなってきた。しかし、これはもしかした ら、うつ病から回復したことの証であるのか もしれない。病んでいた頃の私は口ほどにも なく弱かったし狂っていた、とようやく今、 私はふり返ることができる。
 これは体験してみないとうまく納得できな いことだと思うけれど、うつ病が治るという のは症状が無くなることではなくて、症状が 出そうになっても平気でいられることである ような気がする。「以前ならここでやばくな っていたな」という局面は今でも時々あって 、この辛さにあまり変わりは無いのだけれど 、それでも私は平然とやり過ごすことができ る。強くしなやかになるとはこういうことな のだと私は思い至る。それを観察しているも うひとりの私の感覚は以前にも増して鋭い。 結局、この、やばい局面は死ぬまでずっと私 を訪れ続ける、ということになる。これが成 長であり、青春の終わりなのだろう。だから こそ、楽しいこと、味わいのあることがこれ からたくさんやって来るような気がする。ま ずはめでたい。
 そしておそらく、この強さとしなやかさは 、写真を撮ることと密接なつながりがあるの だろう。つまり、たった一枚の写真の中にさ え、人間の処理能力をはるかに越える情報が 詰めこまれている。それにもかかわらず、ま ずはたくさん撮ることからしか写真は始まら ない。撮り続けた写真の山ができたら、次は それを選ばなければならない。そしてそれを 仕上げる。仕上げはひとにお願いすることも あるとは言え、この一連の作業の中で、最後 に頼りになるのは自分の感覚だけである。そ れは、目隠しをして綱渡りをするのにどこか 似ているかもしれない。この、人間の処理能 力を越えて矛盾した作業を続けるには、天才 でもない限り、何かしら心身の病を乗り越え る必要があるように私は思う。
 ひとは時々は病んでみるべきである、時々 は狂ってみるべきである、と書いておられた 精神科医がいた。この先生は、病から癒えて こそひとは真に強くなる、とも書いておられ た。確かにそれは真実だと今の私には深く納 得できる。病むことや狂うことには大きな損 失をともなうし、周りのひとにも多大な負担 や迷惑をかけることになる。それを受けとめ てくれたひとの優しさに最大の感謝を捧げな がらも、それでも病んで狂ってそこから立ち 直ることには価値がある、と私は言わなけれ ばならない。もちろん、それに対して孤独を 恐れずに全力を挙げて闘う、という条件が常 にともなうけれど。要するに、弱さを克服す るには、病んで狂ってそれを乗り越えるしか 手が無いように思えるのだ。真の健康とはそ こから開けるものかもしれない。晩年のマイ ルス・デイヴィスを私は思い出している。
 病んでいた頃、つまり忘れたくとも忘れら れない思い出に、今よりもずっと深く苦しめ られていた時、写真を撮ることが忘却するこ ととどこかでつながっているのではないか、 と考えてみたことがあった。奇妙なことだけ れど、写真を撮った分だけ何かを忘れてもい いよ、ともうひとりの私が言っているような 気がしたのだ。それを続けていれば、いつか は忘れたいことをきちんと忘れられそうな気 がした。写真を撮り続けることは、記憶だけ ではなくて、忘却のしくみともどこかしら似 かよっているような気がしていた。
 しかし、病んでいた頃の私は、今ほど写真 を撮ることはできなかった。私の期待に反し て、写真を撮ることは病人をあまり癒しては くれないものらしい。ひとへの感謝を忘れず にひたすら生きること、結局それが病を癒し てくれたのだと思う。
 心身の病を乗り越えることは、もしかした ら悟りに似ているのだろうか。病を乗り越え た今が人生の本当の始まりであるような感覚 がある。病んで狂う前の私が、まるで前世の 自分であるように思えることもある。だから こそ、病むまでの、言わば青春時代の美しい 思い出は大切なものなのだと思う。それは、 前世から引き継いだ宝物のようにさえ思える のだ。それは私をこれからもずっと支えてく れる。そう思えるようになったのならば、も はやかつての不快な思い出に苦しむ必要は無 くなる。ビートたけしが、ケンカに勝つ秘訣 として「負けるケンカはしないことだ」と言 っていたのを私は思い出す。それを納得でき ただけでもこの体験は無駄ではなかった。も う負けることは許されないから。
 ところで、冒頭に書いたように、ブランシ ョの「期待 忘却」はいまだに読んでいない けれど、その姉妹編とも言える「死の宣告」 は、ずっと前から私の大切な本のひとつであ る。つい先日もまた読み返してみた。つたな い私のフランス語で、原文でもいくらか拾い 読みをしたことがある。この本は、読み返す たびに分かるところも分からないところも増 えてくる。しかし、その神秘的な魅力はいつ までも変わることが無い。そして、読み返す たびに大切なことを少しずつ私に教えてくれ る。こんな本があるのは幸せなことだと思う 。本だけではなくて、そんなことを私に教え てくれる、大切なひとがいるのも幸せなこと である。
 真の健康と共に生き続けること。その上で 写真を撮り続けること。それが、そんな大切 なひとへのささやかなお礼になるのなら、私 はとても嬉しい。


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