なれのはて

自分の部屋に閉じこもってほとんど外に出 ない「ひきこもり」のひとが全国で七十万人 にのぼるらしい、という調査結果が発表され た。ただ、この調査の対象は確か三十九歳ま でだったから、それ以上の中高年を対象に入 れるとその数はもっと増えるはずだ。いずれ にせよ、この結果からおおざっぱな計算をし てみると、数十世帯にひとりの割合で「ひき こもり」のひとがいることになるのだから「 ひきこもり」はもう日常的な事象だと言って よいだろう。日本中どこでも、外を少し歩い て目に入った家のどれかには「ひきこもり」 のひとがいることになる。
 「ひきこもり」に同情的なひと、あるいは 自分もそうなってしまうかもしれないと思っ ているひとも百万人以上いるということであ る。私も彼らに同情的ではあるけれど、私自 身は「ひきこもり」になりたくともなれない ことが分かってしまった。要するに、何事に も適性や才能が必要なのである。私は部屋に 閉じこもっているよりも、休日に外をふらふ ら歩いている方がずっと心地よくひとりにな れるし、一日中パソコンやテレビをながめる 生活も私にはできない。部屋でひとりになり たくとも誰も私を放っておいてはくれないの だ。これはきっと幸せなことなのだろう。
 「ひきこもり」はそのまま海外で通用する 日本語になってしまったとのことだが「ひき こもり」が存在するのは日本と韓国だけであ るらしい。大人になっても自分自身の世話が できないことが許容されて、歳を取っても親 子が同居する慣習があって、なおかつ働かな くとも食べてゆけるだけの豊かな社会でしか 彼らは存在できない。
 「ひきこもり」が自室の中で悠々自適の毎 日を過ごしているわけでないことは私も知っ ているけれど、自分の肉体や精神のエネルギ ーをごまかして狭い部屋にこもり続ける気持 ちは私には理解できない。結局、彼らが自分 に嘘をついているのは確かだと私は思う。自 分に嘘をつき始めると止めることはできなく なる。それとも、狭い部屋から出るだけの気 力も体力も本当に喪失してしまった脱け殻の ような連中が百万人ちかくもいると言うのだ ろうか。もしそうであるなら、非「ひきこも り」の我々も彼らと同様の脱け殻に過ぎない ことになるだろう。
 パソコンやケータイのような電子メディア が「ひきこもり」を助長している、という意 見もあるけれど、そんな電子メディアが、開 かれた反体制運動の有力な武器になっている 国もある。何事もそれを使うひとの心掛け次 第だと私は思う。
 ただ、今の日本は外に出て働きたくともろ くな仕事は無い世の中である。そして、未来 を考えなければ今日を豊かに生きてゆける世 の中でもある。ならば、幼児化してひきこも ってしまうのも生きる選択のひとつかもしれ ない。その苦しみは消えないにせよ、自分に 嘘をついて悩むことを止めてしまえば、それ はひとまず消滅するからだ。
 それにしても、まともな就職先が無い世の 中なのに、大学生や若い失業者がデモのひと つもせず、自分たちの意見を世の中に発信し ようともしないのはなぜなのだろう。その代 わりに独自に自分を磨く努力をするひとが多 いようにも私には見受けられない。小学生の 頃からひきこもってしまうひともいるらしい けれど、「ひきこもり」予備軍とも言える彼 らはいったい何を考えているのだろう。私に は分からない。
 たとえば、今の大学生は就職活動をするた めに大学に入ったと思っているのだろうか。 偏差値で輪切りにされた大学の格付けを彼ら が無邪気に信じていることじたい、私には笑 止千万であるけれど、そこでろくに遊びもせ ず勉強もしなかった学生が世の中に出て役に 立つとは私には思えないし、それで彼らが幸 せになるとも思えない。しかし、この流れが 変わらないところを見ると、誰も本気でそん な心配をしているひとはいないのだろう。
 大学生に限ったことではないけれど、彼ら はすべてを放り出して下らない競争に邁進す る。その様子は実験動物のレースを思わせる けれど、それに挫折すると彼らはあっさりと 自分の価値を否定してしまう。そもそも、そ んな競争は、誰でもいつかは挫折するように 出来ているのだが、彼らはそれを理解しよう とはしないらしい。その結果、誰に頼まれた わけでもないのに、彼らは世の中を切り開く 気力も体力も喪失してしまう。それは、精神 の「ひきこもり」である。その数はどのくら いになるのか見当もつかない。自室にこもる 「ひきこもり」が七十万人いることよりも、 この方が真に恐るべきことではないのか。
 もう少し自分の頭でものを考えられないの かね、自分の身体を使って何かできないのか ね、孤独に向き合うのがそんなに怖いのかね 、どうして挫折から立ち直ろうとしないのか ね、助けてくれるひとはいないのかね、と私 は言いたくなるけれど、何を言っても無駄で あろう。ひとへの甘え方さえ彼らには分から ないのだ。連中の目つきや体つきを見ればそ れは判る。
 自分の頭でものを考えずに、知識を偏差値 の階段を登る道具におとしめてきた世の中の 風潮が見事に実を結んだわけである。若い連 中に限ったことではないけれど、彼らはそれ にふさわしい目つきや体つきをしているよう に私には見える。もはやどうにもならないの だ。
 「格差社会」という言葉が定着してもう十 年くらいになるけれど、この流れが一向に変 わらないのは、そのおかげで儲かったり楽を している連中が少なからずいるからだし、逆 に、何も考えずにひきこもったりしてその底 辺で生きるのもそれなりに楽だからである。 そして、頭が良いと言われる連中は、この流 れを変えるよりも、うまく立ち回って自分も 儲かる立場にたどり着いた方がトクだと考え ているのだろう。資本主義のなれの果て、こ んな世の中はネズミ講やオウムと同じで、い ずれ決定的に破綻するのは分かりきったこと なのだけれど、オウムがそうであったように 、このトリックには頭の良い連中ほどだまさ れやすいという特徴がある。
 私としては、いずれやって来る決定的な破 綻をどう生き延びるか、頭の良い連中の先手 を打って、無い知恵を絞ってあれこれ考えた りじたばた動いているところだ。
 中世ヨーロッパの画家、ボスやブリューゲ ルの絵が私にはとてもリアルに見える。そし て、世の中の暗い雰囲気のせいなのか、この 夏は六十五年前に終わった戦争の記憶が妙に リアルによみがえってきたように思う。今は 、自分を含めた人間の愚かさを考えるのには 良い時代かもしれない。とてもじゃないけれ ど、心も身体もひきこもっている場合ではな いのだ。たとえば、野良猫は何も言わないけ れど、彼らは決してひきこもって生きている わけではないだろう。街路にひそむ野良猫た ちのように、目を光らせ耳を澄ませながら、 身体を動かしてしぶとく生き続けるのが良い ように私には思える。


[ BACK TO MENU ]