ひとやすみ

「スイング・ジャーナル」誌が休刊になっ た。戦後間もなく創刊されて以来、今日まで 切れ目無く出されてきたジャズの専門月刊誌 である。若き日の植木等が新進ギタリストと して初めて紹介されたのもこの雑誌だったと いうのだから、その歴史がしのばれるところ である。
 ところが、どういうわけか「アサヒカメラ 」誌の片すみにも「スイング・ジャーナル」 休刊についてのコメントがあって、私が思う にこれがジャズやジャズミュージシャンに対 して失礼極まりないものになっている。「ス イング・ジャーナル」以上に長い歴史を持つ 雑誌がこんな文章を載せることが私には信じ られない。
 それがどの程度のものかということは「ア サヒカメラ」の編集後記を読んでみれば分か ることだけれど、世間でそれなりの地位につ いている人のジャズに対する認識とはこの程 度のものなのだろうか。デンマークの私設レ コード会社「スティープルチェイス」を薬漬 けジャズメン再生工場とかいう書き方をする 奴を私は許すことはできない。こういうこと を書く奴は本当に好きで音楽を聴いているの だろうか。あえて言わせてもらえば、編集者 の分際で、真摯なアーティストやプロデュー サーを何だと思っているのだろうか。私には まったく理解できない。あまり言いたくはな いけれど、これでは、本業の写真に対する見 識さえ疑わしくなるではないか。
 ただ、「スイング・ジャーナル」はいずれ 復刊するものと私は信じている。あんなふう にジャズの近況や歴史をていねいに紹介して くれる雑誌は他に無いし、その需要が無くな ることはないと思う。それに、この雑誌は怒 る時はきちんと怒るのである。レコード会社 の広告が減ったことが休刊の原因とのコメン トがあったけれど、私の勝手な印象では、こ の雑誌は豪華になり過ぎて身動きがとれなく なったのではないだろうか。雑誌の作りがバ ブルの頃と同じであるように私には思えたし 、長年続いた老舗の雑誌にはしがらみも多く て、現場の編集者の自由がきかなくなってく ることもあるのかもしれない。であれば、今 回の休刊は再生のための良い機会になること と思う。スリムに若々しくなって早い時期に 復刊するのを私は楽しみに待っている。
 「アサヒカメラ」には「紙の文化の退潮」 とかいうコメントがあったけれど、「スイン グ・ジャーナル」はそんなことをひとことも 言っていないのが立派である。最近、休刊や 廃刊に追い込まれる雑誌が増えているのはそ んなことが理由ではないはずだ。それを真摯 に反省することもなく、つまらない一般論に 逃げてしまう雑誌におそらく未来は無い。
 もしかしたら、この雑誌も危ないのだろう か。大相撲ではないけれど、写真が存続の危 機に瀕していることに彼らが真摯に向き合っ ているように私には思えない。古い時代の文 芸誌のように、名のある「写真作家」の作品 が毎月その巻頭を飾るけれど、この形式が今 の時代にも力を持つのかどうかは私には疑わ しい。同じカメラ雑誌でも、有名な写真家の 作品があまり載らない「日本カメラ」誌は巻 頭の作品はもちろん、メカニズム関係の記事 もアマチュアのコンテストも私には相変わら ず面白い。余談ながら、写真を始めた頃、私 は「日本カメラ」に大変な恩義があったので 、その頃の面白さがあまり変わらず今に引き 継がれているのはとても嬉しい。
 それにしても、いったい写真て何なんだろ う、あるいは写真の楽しみって何なんだろう 。私は今さらながらそれをしつこく考えてい る。写真機材が進歩するほどその問いかけは 大切になるはずだと私は思うけれど、それに 応えようとするひとは見当たらなくなってし まったみたいだ。
 その、高性能で誰が撮っても均一な写真を 生み出すデジタルカメラが、今までの写真の 約束事をなし崩しにしてしまったのは確かだ と私は思う。デジタルカメラが生み出す写真 に、もはや写真家の個性を読み取る必要は無 いのだろう。それは別に悲しむべきことでは なくて、フィルムカメラなどおよびもつかな い究極の道具であるデジタルカメラが、写真 の原則を理想的な形で実現してしまっただけ のことだ。そうなると、写真は世間に拡散し て消滅してしまうのである。作者のぬくもり や肌触りを拒否するようなデジタル写真があ ふれる今こそ、もしかしたら「写真よさよう なら」、あるいは「写真作家よさようなら」 と言うべき時なのかもしれない。
 そして、デジタルだろうがフィルムだろう が、良い写真をいくら撮ったところでそれは 外界を平面に複写した静止画像に過ぎないこ とは当たり前の話で、たかがそれだけのもの でしかない写真に間違った幻想を抱いている ひとがずいぶん多いように私には思える。
 結局、写真家が見た世界を、写真家の印象 とは少しずれた形で定着する。写真の原則は これに尽きるのだと私は思う。そこに写真家 の個性を読み取ろうとするのは美しい誤解と しか言いようがないし、そうであれば、いか なる形であっても写真家は職業として成立す るものではないはずだ。あえて言えば、それ でもなりたい、というひとだけが「プロ写真 家」を目指す資格があるだろう。それならば 、私は気ままで厳しいアマチュアを選ぶ。
 私の前にも「なぜ写真で稼ごうとしないの か」という愚問を発する奴は今も現れるのだ が、そんな無礼なことを言う奴とは私は一切 のおつきあいをお断りしておきたい。この楽 しみは彼らには分からないのだ。ざまあみろ と私はせせら笑うしかない。僣越なたとえで はあるけれど、詩作から離れてアフリカを放 浪していたランボーが、しばしば「なぜ文学 で稼ごうとしないのか」と問われてうんざり していた気持ちが私には少し分かるような気 がする。
 そんなわけで、休日に外出する時に私は相 変わらず必ずカメラを持って行くし、「たか が写真」という思いが強くなるほど私のシャ ッターを押す回数は増えてゆくのである。そ の結果、何と言うことも無い日常の断片がフ ィルムの上に次々と定着されてゆく。そんな 自由な時間は私にとってかけがえの無いもの である。時間をおいてそれを見直す楽しさも 写真でしか味わうことができない。作為も技 術も無いそれだけの写真を、こうして毎月た くさんのひとにお見せすることもできるし、 展覧会を開いてたくさんのひとに楽しんでも らうこともできる。その写真には私の意図を 越えた様々なものが写されている。それは町 のざわめきであったり私の意外な心情であっ たりする。それが写真なんだよ、と今の私は 言うだろう。
 結局、写真は戦前の安井仲治や飯田幸次郎 、あるいは鈴木八郎といった写真家たちが活 躍していた頃に回帰するのではないか、と私 は考えている。暗い時代の中で、物資不足に 苦しみながら、それでも真摯に楽しんで身辺 を撮り続けていたアマチュア写真家が活躍し ていた時代である。最近、有名な写真家の作 品よりもアマチュアの作品やコンテストの入 賞作の方が何だか面白くなってきたのはその 現れかもしれない。時代がひとまわりしたの だろうか。森山大道さんが最近、県展の審査 をされているのも、今、そこにこそ写真の本 来の楽しみと可能性を見いだしているからか もしれない。そこからも少し離れたところに いる私は、休日にはなるべくたくさんシャッ ターを押す。それをこうしてひとに見てもら う。とりあえずこれに尽きる。
 ところで、私がフィルムにこだわっている のは、デジタルのように便利過ぎるものが私 はどうしても好きになれないからだし、化学 実験を思わせる暗室作業が好きだから、とい う理由でしかない。そして、写真の最後のと りでとして、デジタルのようにすべてをデー タに還元することはせずに、物質としての感 触を写真に残しておきたいと思うからだ。


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