遠い声

以前にも私は何度か書いたことがあるけれ ど、数年前に亡くなった、臨床心理学者で文 化庁長官を務めておられた河合隼雄さんがい ろんなひととの対談で述べておられる言葉を どう受けとめたらよいのか、私にはいまだに よく分からない。
 そこには他のひとの口からはなかなか出て こない、暖かい励ましの言葉もあるし、闇の 中に灯をともすような言葉もあって、私もそ のおかげでずいぶんと救われたのは確かであ る。感謝の言葉も無い、とはこのようなこと を言うのだろう。
 それでも、このひとの言葉のすべてを私は 素直に受け入れることができないのだ。それ は、書物を追うだけではなくて、実際に河合 さんにお会いしなければ納得できない性質の 言葉だったのだろうか。苦しんでいるひとを 優しく包んでくれる言葉の前後に、一歩間違 えばただの交渉術や保身術に転落しかねない 言葉が並んでいることがある。この、河合隼 雄というひとは自由人のようにも見えるし、 逆に極めて官僚的なひとであるようにも思え る。聖と俗の幅が極端に大きくて、とても私 ごときに理解できるひとではない。そして、 他者を動かす強大な力をお持ちである。河合 さんが長く人事不省を経た後に亡くなられた のは、このひとが、実は誰にも理解できない 巨大な闇をさまよっておられた証であるよう に私には思えてくる。
 こんなふうに、大変失礼なことを書いてい る私ではあるけれど、私の中の猛獣が暴れ出 してどうにもならなくなってしまった時、私 は河合さんの本を読み返してみることがある 。その、私を食いちぎろうとして暴れる猛獣 を、私自身が抱きしめてあげる決意を固めて しまえば、河合さんの本の中にある言葉のい くつかは、ふたつに分かれて争っている私を 鎮めてくれるのである。不思議なことに、そ んな言葉は苦しんでいるひとに優しく語りか ける種類のものではなくて「日本人は神代の 頃から変わっていない」というような言葉だ ったりする。そんな言葉が、なぜ私を鎮めて くれるのか、私には分からない。ただ、河合 さんは、優しさと厳しさというものが、きわ どいくらい背中合わせに向かい合って存在し ていることを誰よりもよく知っていたのだろ う、と私は思う。
 その、神代の頃の物語と言えば「古事記」 である。私は小学生の頃に子ども向けに書き 直されたものを読んだだけなので「古事記」 について何かを言える立場には無い。それで も、天照大神が天の岩戸に閉じこもってしま う話を思い出すと、日本はその始まりから「 ひきこもり」の国だったんだなあ、という感 慨があったし、イザナギの神が、死んでしま ったイザナミの神を追って黄泉の国に行った 帰りに清らかな川で身体を清めると、そこか ら新しい神々がひょいひょいと生まれる場面 も印象に残っている。死の世界や豊かな自然 との交感の中で神々が時を越えて生きてゆく のは、もしかしたら日本の神話の特色なのか もしれない。
 実は、このような神話は形を変えて今もそ れぞれのひとの中に宿っている。それがその ひとの「物語」であって、現実とのせめぎあ いを経てその物語をひとりひとりが実現して ゆくのが自己実現である。そんなことも河合 さんは語っておられたように思う。その、自 分の物語にうまく組み込めない何物かと出会 った時、ひとは心を病むことがある、とも語 っておられたかと思う。心の病というのは精 神の消化不良のようなものなのだろうか、と 私は今思いついた。その「消化」をうながす ために、河合さんは苦しんでいるひとの話を ひたすら聴き続けたのかもしれない。
 去年だったか、私は、特に心を病んでいる わけでもない年上の恩人から「これからどう 生きていったらよいのか分からない」という 言葉をさりげなく投げかけられたことがあっ た。そのひとは人生のプランを持たずにこれ までを生きてきたわけではなかったし、逆に それに縛られてしまうようなひとでもなかっ た。それほどのひとが私にそんなことを言う のがショックだった。
 私を含めて、時代のせいも年齢のせいもあ るのだとは思うけれど、それでも河合さんが 言ったとおり、我々は神代の頃から何も変わ っていないのかもしれない。つまり、今の世 の中を覆っている危機なり閉塞感は、べつに 今に始まったことではないのかもしれない、 とも考えられるのだ。
 ならば「古事記」の神々のように、我々は 自然との交感、あるいは死者との交感の中で 生きていることを忘れないようにすることが いちばん大切なのではないか、という気がす る。そして、外界に存在する自然や死だけで はなくて、我々の肉体や精神の中にあるそれ を大事にしなければならないだろう。この危 機は、その心掛けでなんとか乗り越えること ができるように私には思えてくる。あまりに もせっかちで幼稚な、この時代の表層に我々 はだまされて苦しんでいるだけなのかもしれ ない。それこそ「消化不良」や「食あたり」 、あるいは「自家中毒」なのだろう。結局、 生きている人間どうしが電子メディアだけで つながったところで何の救いにもならない。 幸福はそれとは無関係なところにあるはずな のだ。我々はそれに気がついてもよい頃だと 私は思う。
 ところで「古事記」の舞台となった宮崎県 で、今、牛や豚たちが伝染病に侵されて殺さ れてゆくのがとても痛ましい。この事件には 何か神話的な意味があるのだろうか、と私は ふと思う。病気に侵されて殺されてゆく牛や 豚たちは、もしかしたら我々の何かの身代わ りになっているのだろうか。我々は、苦しん だ末に殺されて埋められてゆく彼らを悼み、 彼らにかかわるひとたちの苦痛をおもんばか ることしかできない。無力なくせに傲慢にな りがちな我々は、どこか深いところからやっ てくる遠い声を聴こうとするように努めるし かないような気がする。


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