時をながめて、ふたたび
近所の図書館から借りてきたジーン・シノ
ダ・ボーレン著「タオ心理学」という本にこ
んな文が載せられていた。
「予知の研究は、時間とは永遠の現在であ
り、直線的に進む時間は幻想であるという可
能性を支持しているように思います。私たち
はふつう、現在の中でだけ生きているという
経験をしているわけですが、予知は、現在と
未来が同時的に存在しうるということを意味
するからです」
これは、なかなか恐ろしいことを指摘して
いると私は思う。この、タオ心理学を切り開
いたユングというひとの学説もまたずいぶん
と魅力的で、しかし、そのぶん読み手によほ
どの強さが無ければ、それはたやすく馬鹿げ
たオカルトに堕ちてしまうことになるみたい
だ。
「タオ心理学」で考察されているのは、心
理学の範囲をはるかに越える広大かつ重大な
事象だろう。だから、そのすべてをひとりの
人間が担うのは不可能なのだという気がする
。その魅力に引き込まれて、ひとりでそこに
没頭してしまうのは、あまりにも危ういこと
のように私には思える。
私が同時に読み続けていた詩人ヘルダーリ
ンの伝記を思い起こせば、彼はたったひとり
で、しかも急激に神の領域に近づき過ぎたた
めに、長い後半生をまるで廃人のように生き
なければならなかった。ヘルダーリンが正気
を失ってから書いた詩が私は大好きだけれど
、べつに人間はこのように生きるために生ま
れてくるのではない、という気持ちも私には
あるので、私としては、ここは時間をかけて
少しずつ、その闇を見てゆかなければならな
いだろう。僣越ではあるけれど、ヘルダーリ
ンを狂わせた何物かに対応するものが私の中
にも残されているように思えるからだ。そこ
に、私はかけがえの無い喜びや安らぎを見い
出したいと思う。
それにしても、時間は永遠の現在である、
というのは当たり前にも思えるけれど何と衝
撃的なことだろうか。この文のことを考えな
がらそれ以来、私はひと並みに毎日を暮らし
てきてはいるけれど、ほとんど呆然として天
を仰いでいたような気がする。
「過去も未来も、それを考えている現在に
存在している」という見解は私も以前に読ん
だことがあって、それはそれでもっともなこ
とだと納得がいったのだけれど、そうではな
くて、かつて通り過ぎた過去も、これからや
って来る未来も、この現在と同様に生命を持
って豊かに息づいている、ということがここ
から分かるからだ。過去は古くならないし、
未来は未知ではない。過去を変えることはで
きないし、未来を正確に知ることはできない
けれど、それでも人間はそこを自由に行き来
することができる。一方的に流れてゆく時間
というものは幻想でしかない。時の流れは決
して不自由な制約ではない。それは決して心
身をむしばむことでもない。
これは恐ろし過ぎるほど素晴らしいことで
はないだろうか。これは、過去を懐かしみ未
来に憧れるという情緒とはまったく別のこと
なのである。
ただ、繰り返しになるけれど、その実態は
あまりにも広大で重大なので、あまり私自身
がそれにとらわれすぎてはいけないような気
がしている。もちろん、私はユングやヘルダ
ーリンのような天才ではないから、ここは、
その広大かつ重大な何物かに真正面から生真
面目に向き合ってはいけないのだと思う。そ
れを横目で見ながら、まるで虫が街灯の周り
を飛び回るように生きてゆけばよいような気
がしている。そのあいまに私は仕事をして写
真を撮る。
吉本ばななだったか、人間は誰でも結局自
分がなりたいものになる、というようなこと
を言っていた。それも確かにそのとおりだと
私は思う。私の今までを振り返ってみてもそ
う思う。であれば、私はもはや何も恐れる必
要は無くなる。ただし、写真家である私は哲
学者や宗教家のように悟りきってしまうわけ
にはゆかない。外界の、世間の気配と無関係
に自分を保つのは難しいし、それは写真家と
してやってはいけないことである。だから、
これからも私は世間のつまらない風潮に時折
おびえながら生きてゆくことになるのだと思
う。そこに、何ほどの怖さがあるだろうか、
とも思う。
「タオ心理学」には、テレパシーの精度は
距離によって左右されない、とも書かれてい
た。時間が自由であるように、距離というも
のも実は絶対の制約ではないのかもしれない
。この宇宙の因果的な表層の奥に、全く別の
秩序が存在しているものらしい。
この本を二回読んでから、私はユングと物
理学者パウリの論文が収められた「自然現象
と心の構造」という本を読み始めた。これも
なかなか恐ろしい本だと思う。ただ、ユング
がここでこだわっている占星術というものが
私にはよく分からない。いずれにせよ、こん
な本はゆっくり読むのが一番である。そうこ
うしているうちに、北国にも遅い春がやって
来る。青空と白雲が美しくなってきたのだ。
正気を失ったヘルダーリンの詩に、それはし
ばしば美しく歌われている。
結局、年齢を重ねると、ひとは自由になっ
てゆくことができるみたいだ。私にしてもそ
れは同じことである。毎年やって来る、春を
待つこのゆううつと身体のこわばりはそのつ
まらない代償なのかもしれない。私の意思と
は無関係に、私の時間は大河のようにゆっく
り力強く流れているみたいだ。見ろよ青い空
白い雲、そのうちなんとかなるだろう、とい
うことか。不思議だ。