「沈黙の春」から
レイチェル・カーソン著「沈黙の春」とい
う名著がある。私はようやくこれを読み始め
たところなのだけれど、人類がまき散らして
きた化学物質による環境汚染のせいで、春に
なっても野山に鳥も虫も現れず、生き物の歌
が聞かれなくなる未来を著者は「沈黙の春」
と名付けている。「病める世界」という言葉
もそこに記されているのが私は忘れられない
。そんな世界では当然、人間も心身ともに健
康に生きることは不可能になる。
北国に住んでいる私としては、長く厳しい
冬がようやく終わって、暖かく美しく、野生
の声があふれる春がやってくるのをこうして
楽しみにしているのは毎年のことなのだけれ
ど、もしかしたら、そんな春はもはや追憶の
中にしか現れないのかもしれない、と思うと
悲しくなる。外の世界に「沈黙の春」が訪れ
る前に、我々の中にそれはすでに現れている
ように私には思えるからだ。日常のつまらな
い出来事がそのことを私に痛烈に思い知らせ
てくれることがある。
たとえば今、春を前にして、なじみのラー
メン屋に入ってそこでとなり合わせた私と同
年代のサラリーマンたちの会話を小耳にはさ
んでも、私にはそれがよく理解できない。彼
らがささやいている言葉の意味は分かるけれ
ど、そこに私は何の感情も見い出すことがで
きないので、その会話が何を意味しているの
か私には分からない。美味しいラーメンとの
落差はあまりにも大きい。
私もかつて、彼らのようにネクタイを締め
てスーツを着て町を歩いていたことがあった
のが自分で信じられない。私ひとりが勝手に
遠くまで来てしまっただけなのか、それとも
時代が変わって、ついに「沈黙の春」が町行
くひとにも来てしまったのか、私にはよく判
らない。サラリーマンの世界で生き続けてい
る私の友人たちはいったいどうしているのだ
ろう、と今さらながら心配になる。
太平洋戦争の末期に、空襲を受けて燃えさ
かる町を、まるで花火を見物するように遠く
の高台からながめてくつろいでいた連中がい
た、という話を私は聞いたことがあるけれど
、時代はすでにそれさえも通り過ぎてしまっ
て、我々は今、一面の焼け野原の中で「沈黙
の春」を迎えているのかもしれない。うわべ
は小綺麗で平穏に見えるせいで、それを指摘
するのが極めて難しい。しかも、それを五感
でとらえるのは不可能なようなのだ。
どうやら、数十年前の何でもない町の気配
やひとの息吹を思い出したり、言葉に表すの
は大変に困難なことであるらしい。それは、
同時代を体験したひとに「あれだよ、あれ」
とでも言って思い出してもらうしかないよう
な気がする。ただ、その頃に流行った歌をア
ナログ盤で聴いてみると、その気配がよみが
えってきたりする。あるいは、当時の映像が
テレビで流れたりすると、その気配が強烈に
伝わってくることもある。古い映像の中で動
いているひとびとの顔つきや、当時のテレビ
の色調が何よりも雄弁にそれを伝えてくる。
古い記念写真にそれは似ている。そして、荒
木経惟さんが若い頃に地下鉄の車内で撮り続
けた中年女のポートレートがそれを強烈に伝
えてくれる。
あんな気配を、今の時代は数十年後に残す
ことができるのだろうか。何もかも小綺麗に
消毒されつくしてしまって、もはや何十年た
っても今のこの冷めた気配は変わらないので
はないか、と私には思えてくる。数十年後に
今の時代を振り返ってみても、我々はもはや
砂を噛むように「今と同じじゃないか」と思
うことになるのかもしれない。それとも「あ
の頃は今よりもまだましだった」と思うこと
になるのだろうか。一度訪れた「沈黙の春」
は、そう簡単には去ってくれないだろうとい
う気がする。
もはや、私は非情になるしかここで生きる
道は残されていないように思う。五感と第六
感を磨きながらも、それで情緒に流されて萎
縮することは避けなければならない。しかし
、非情になればなるほどひとの感情はよく理
解できるようになる。奇妙なことだけれど、
そうなると今までとは別の意味で情にもろく
なったりする。気候の変化や自然の営みが前
にも増して喜びを持って感じられるようにな
る。「沈黙の春」の中にあっても私にはまと
もな春がやって来るのである。
そんなわけで、町を行くひとの多くは、す
でに荒涼とした「沈黙の春」の中にいるのか
もしれない。彼らは確かに生身の人間なのだ
けれど、もはや町の登場人物にしか過ぎない
ように私には思えることがある。電柱や建物
や街路樹が町の一部であるのと同じなのだろ
うか。
町で私がカメラをかまえてみても、町のひ
とたちはほとんどそれに気がつかないらしい
。たまにそれに気づくひとはいるけれど、彼
らは私をにらむことが無いのが不思議である
。そんなひとはきまって後ろを振り向いて首
をかしげる。このひとはいったい何を撮ろう
としているのだろう、と怪訝そうな表情を見
せて私のそばを通り過ぎる。誰も私のことを
気にしてはいないのだ。それがとても心地よ
い。
不思議なことに、私が非情になればなるほ
ど世界がひらけてそこに暖かさが通うように
思えるのだ。これが前に書いたことがある「
開かれた孤独」なのだろうか。それがただの
思い込みではないことは、私の手許で増え続
けるネガの集積が保証してくれるような気が
する。現物として存在し、データに還元され
ることの無い銀塩写真のメリットがこんなと
ころにも現れている。そんなことを思いなが
ら私は春の光の中を歩き続けることになる。
それが私をまたどこかに導いてくれるのだと
思う。