無為の休暇のために
新聞を斜め読みしていたら「ひきこもり」
を抱える親御さんの会が開かれる、という記
事が目にとまった。その中で驚かされたのが
、何と三十四年も「ひきこもり」を続けてい
るひとがいる、というくだりだった。これは
いったいどういうことなのか。
このひとは今から三十四年前、つまり七十
年代なかばからずっと世の中との関わりを絶
って孤立して生きてきたことになる。今、本
人はおそらく五十歳を越えているだろうし、
親御さんは八十歳に近くなっているはずであ
る。これは、私ごときの想像を絶する事態と
しか言いようが無い。
彼らがこれからどんなふうに生きてゆけば
よいのか、あるいは周りのひとがどんな手を
打てばよいのか、心配の種は尽きないけれど
、人間が三十四年も自室にひきこもって生き
ている、ということ自体が私には信じられな
い。つまり、両親以外の誰とも関係を持たず
にこんなに長く孤立して生きてしまうひとが
いる。いちど挫折したまま外の世界を知らず
に、いかなる形でも幼年期を脱することがで
きずに中年を過ぎるまで生きてしまうひとが
本当に存在する。このひとは、大人になるこ
とができずにこのまま老いて死んでゆくのだ
ろうか。
三十四年も孤立して生きるなんて、もはや
世を捨てて山奥にこもっている修行僧しか私
には思い浮かばない。言葉を失い、心の闇を
抱えてひきこもるためだけにひきこもってし
まった修行僧。手塚治虫の「ブッダ」にそん
な場面が描かれていたと思う。ブッダが彼の
前に現れた時、その修行僧は人間の言葉を取
り戻して神の許に召されてゆく。
あるいは、村上春樹の長編「羊をめぐる冒
険」に出てくる「羊博士」だろうか。それは
、やはり巨大な闇を抱えたまま、同居する息
子とろくに口もきかずに自室にひきこもり続
ける老人である。羊博士の前に現れた主人公
がその闇を引き受けて、悪戦苦闘の末に再び
彼の前に戻って来た時、羊博士の長いひきこ
もりは終わる気配をみせる。それがこの物語
の救いになっていると私は思う。
そんな物語のように、長いひきこもりを続
けるひとが抱える巨大な闇を、いくらかでも
引き受けてくれる血が通ったひとはこの世に
はいないのだろうか。他人の闇をみずから引
き受けて、そのために傷ついて涙を流して、
それでもそのひとの前に笑顔とともに再び現
れてくれる人間は本当にこの世にいないのだ
ろうか。そんなひととめぐり会うことができ
るのならば、人間が三十四年もひきこもるな
んてことはあり得ないと私は思うのだ。
それでも、そんな物語に登場する「ひきこ
もり」の大人たちは、ひきこもる前に世間で
存分に生きた経験を持つひとであって、世の
中に踏み出したとたんにつまずいて、そのま
まひきこもってしまう昨今の連中とは違うの
ではないか、とも私は思う。
こんなふうに、私は「ひきこもり」に関心
をひかれるけれど、私自身はそんなふうに生
きられないことを知っているし、「ひきこも
り」を続けるひとの言い分を理解してあげる
つもりも無い。私だって、ささやかではあっ
ても他人の心の闇を引き受けて悪戦苦闘した
経験がある。しかし、今となっては愛憎なか
ばの想い出を持つそのひとたちは、決して「
ひきこもり」ではなかった。苦しみ迷いなが
らも生きることにひたむきなひとたちだった
と思う。結局、外の世界と闘う意思を少しで
も持ち合わせているひとでなければ私は関わ
ることができない。それが私の生理なのだか
ら仕方が無い。
ただ、まともな仮面をかぶっていても、外
の世界と闘う意思を持ち合わせていない、ぬ
らりひょんのような連中が世間には今、うじ
ゃうじゃいる印象が私にはあるので、「ひき
こもり」も非「ひきこもり」も実は大して違
いは無いような気もしている。つまり「ひき
こもり」は非「ひきこもり」が必死になって
隠しているものを体現しているに過ぎないの
ではないか、という思いが私にはある。
それにしても、三十四年前、つまりインタ
ーネットもケータイも、つまり電子メディア
が存在していない時代から「ひきこもり」は
存在した。世の中が今ほど豊かでなくとも、
そんなひとは存在した。これはもしかしたら
重要なことかもしれない。よく考えてみれば
、かつて、誰でも身近なところにそんなひと
が存在していたことを思い出せるかもしれな
い。時代をさかのぼって、たとえば柳田国男
や宮本常一の聞き書きにもそんなひとが登場
していたような気がする。要するに、いつの
時代にも「ひきこもり」はいたのだと思う。
日本だけでなくて外国にも、形を変えた「ひ
きこもり」は昔から存在していたのかもしれ
ない。
それでも、今、日本には七十万人以上もの
「ひきこもり」が存在するらしい。もちろん
、これがまともなことだとは私にも思えない
。この、膨大なひとびとが、もしかしたら私
の心の闇を肩代わりしているのかもしれない
。そう思うと私は底無しに不気味な思いにお
ちいるのだ。
どうすればよいのか、私には本当に分から
ない。ただ、かつて私が心身ともに疲れ果て
て「ひきこもり」の一歩手前まで追いつめら
れてしまった時、「疲れたら休め」というや
わらさんの言葉が私を救ってくれたのを憶え
ている。もしかしたら「ひきこもり」の連中
は、すべてのしがらみから解き放たれて無為
に休むことを知らないだけかもしれない。そ
れは、何かに熱中したことが無いことの裏返
しでもあるだろう。このふたつを知るのが大
人になるということなのだろうか。無為に休
んでいれば、いずれまた何かやりたくなる。
外の世界に辛いことが待っているとしても、
いつまでもひきこもっているわけにはゆかな
くなる。それをさりげなく教えてくれたやわ
らさんに私は感謝するばかりである。
結局「ひきこもり」の連中は、やりたいこ
とに熱中する快楽を知らず、おおらかな「な
まけもの」でさえなくて、単に勤勉で傷つき
やすい世間知らずに過ぎないような気がする
。私の経験では、何かに熱中したあげく、疲
れ果てて無為に休んでいる人間を許容しない
ほど世間は野暮ではなかった。そんな、ひと
の優しさを知らない、狭量な「ひきこもり」
につける薬はどこにも無いと私は思う。