「ならず者」の話、ふたたび

獄中にある中国の政治活動家がノーベル平 和賞に決まった、というニュースが伝えられ た。よせばいいのに、それについての中国政 府のコメントが私にはとても面白い。
 事を荒立てたくなければ一切のコメントを 出さずに放っておけばよいのに、中国政府は 今回の受賞を自分たちへの挑戦として受け取 っているみたいだ。中国の法律に違反した者 はノーベル平和賞には値しない、とか彼らは 言っているけれど、なるほど、中国政府はノ ーベル賞の権威をそれほどまで高く買って恐 れている、ということがここから判る。馬脚 を現すとはこんなことを言うのだろう。ノー ベル賞だって間違ったひとにあげてしまった 過去がわりとあったみたいだ。そう思って放 っておけばよいのに、強大な権力を振り回す 専制政府は外部の権威を過剰に恐れて、いつ のまにかこんなふうに自滅への道を歩み始め ることになる。
 これでは、中国の「我が世の春」もあまり 長くは続かないのかもしれない。「おごる平 家は久しからず」ということわざは中国には 無いのだろうか。我々の想像を絶する歴史と 混乱を抱えたこの大国の政府は、そんな自分 たちの姿を認めることが出来ていないように 私には思えてくる。しかし、専制政治は案外 もろいものだ、ということくらい、彼らは知 っているはずである。
 結局、暴力で権力を手にした政府はこうな るしかないのだろうか。最後に頼みになるの は暴力しか無い、というのは哀れなことだと 私は思う。だからこそ、彼らは専制政治を手 放すことができない。我々外国人もおそらく 中国の一般のひとびとも、政府のそんな弱点 に勘づいているだろうから、独裁的なこの政 府はこれから喜劇的な悲劇を演ずることにな るのだろう。不幸なことだと思う。
 日本以上に急速に高齢化が進むこの国は、 これからすさまじい混乱と没落を迎えるよう な気がする。そのすぐとなりに住んでいる我 々はいったいどうすればよいのだろうか。昔 、中国で明から清に王朝が交代した時、徳川 幕府は劣勢に立たされた明からの出兵の要請 を無視して、日本の平和のためにそれを放っ ておいたということだけれど、その経緯を調 べてみると面白いかもしれない。豊臣秀吉の 朝鮮侵略の苦い記憶が生きていたのだろうか 。もしかしたら、鎖国のような「ひきこもり 」も有効な外交戦略になるのかもしれない。 「ひきこもり」は日本の得意技にして最強の 切り札かもしれない。こんなことを言う私は 、政治については面白半分の意見しか持てな い「ならず者」なのだろう。
 それはともかく、中国の長い歴史の中で、 平和的に政権が移行したことはあったのだろ うか。暴力によって権力の座に就きながらも 、異民族や異教徒に飴とムチのような寛容な 政策をとった王朝は存在していた、と私は高 校の歴史の時間に習った記憶がある。中国の 、今に伝わる高度な文化はそんな時代に育ま れていたのだろう。それでも、どの王朝も、 広大な国土を治めるために組織された優秀な 官僚や宦官たちの腐敗を止めることができず に衰えてしまう。世界にとどろく経済大国と なった今でも、三千年以上続いたこの悪しき 伝統を絶つのは難しいのだろうか。それは、 官僚が腐敗して独裁的になりがちな日本でも 他人事ではないように私は思う。
 ところで、ノーベル化学賞を今年は日本人 研究者が受賞することになって、その先生方 に菅直人総理大臣がお祝いの電話をかけてい た。その菅直人氏は確か大学で応用物理学を 専攻したひとだったと私は記憶している。自 然科学を学んだひとが政治家に転身する例は 古今東西たくさんあるみたいだし、それは大 いに必要なことでもあるだろう。しかし、厳 密かつ謙虚な観察と考証を必要とする自然科 学者が、それとはまったく異質に思える政治 の世界で生き続ける気持ちが私にはよく分か らない。それとも、自然科学と政治には私に は理解できない共通点があるのだろうか。
 十年以上前に出た菅直人著「大臣」という 本を私も面白く読んで、このひとの政治家ら しからぬ冷静な筆致を私は今でも憶えている 。その後さらに紆余曲折を経て総理大臣にな った菅直人氏は、いったいどんな気持ちでノ ーベル化学賞の先生方に電話をしたのだろう か。そして、かつては自然科学を専攻してい た自分が、今、どんな気持ちで日本の最高権 力者として政治に当たっているのだろうか。 それを私は知りたいと思う。
 政治というものが結局私にはよく分からな い。ただ、政治家という人種は、この地上か ら浮き上がって勝手な妄想にのぼせやすいこ とは確かみたいだ。だから、どんなものであ っても、イデオロギーを振り回す政治家が私 は嫌いなのだ。急進的な政治家にも保守にこ だわる政治家にも私は違和感を覚える。政治 家は、理念と現実に身を引き裂かれるリアリ ストであってほしいと私は思う。そうでない 思い上がった政治家に、地上を見ることがで きない政治家に、我々は冷水をかけ続ける必 要があるだろう。投票に行かない、という白 け方は、そんな奴らをつけあがらせるばかり なので私は嫌いである。逆に、政治家の言う ことを信用して積極的に支持するのもおそら く愚かなことで、「他に適当な人がいない」 という理由が総理大臣を支持する理由のトッ プに来ている今の日本は政治的に健全なのだ ろうと私は思っている。
 それにしても、日本でも外国でも、政治家 たちの権力闘争のすさまじさには言葉を失う ばかりである。入学試験が大学教育と無関係 であるように、権力闘争と政治は本来別物だ ろう、と思うのは私の無知なのだろうか。入 学試験と同様、権力闘争はそもそも政治の前 段階に過ぎないはずなのに、政治家はそこを はき違えてしまいやすい人種であるように私 には思える。それとも、権力闘争とはそれほ どまで面白いものなのだろうか。私には分か らないしあまり興味も持てない。
 ただ、政治家連中がそんなことにうつつを 抜かしていると、官僚たちの暴走と腐敗を抑 えることが難しくなるのではないか、と私は 心配になる。官僚たちは極めて優秀であるう えに、選挙で落ちればただのひとである政治 家とは違って、終身雇用の正社員なのである 。そして、自分たちの保身のためなら官僚は 何でもやる。彼らのささやきを私も耳元で聞 かされたことがある。
 結局、政治とは極めて重要ではあるけれど 、しょせんこの世の必要悪に過ぎないのかも しれない。もちろん官僚もそうなのだろう。 彼らを「公僕」とはよく言ったものだと私は 感心している。
 あまり熱くなることもなく、無関心になる こともなく、政治は穏やかに新陳代謝を続け ていてほしいという気がする。我々が柔軟さ と落ちつきを忘れなければ大丈夫だろう、と 私は思う。比較的平和な歴史を持ち、専制的 になる必要も無い我々は、外部の権威にヒス テリックに反応する必要も無い。幸せなこと だと思う。我々は充分に大人なのだと私は思 う。そのうえで、チリの落盤事故で救出され たひとびとのように、極限状況にあっても冗 談を飛ばせるようになれれば何も言うことは 無いだろう。


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