猛暑と初秋の光と影

ここ百十年間でいちばん暑かったというす さまじい猛暑も、こうして九月のなかばにさ しかかるとさすがに終わる気配が見えてきた 。昼の暑さはともかく、空気が少しずつ乾燥 してきて陽射しが傾いてくるおかげで、光と 影の彫りが深くなっているのが判る。町はず れを撮り歩いていると、ほとんど直角に降っ てくる真夏の強烈な光の下とはまた違う写真 が撮れるような気がして愉しい。天気の良い 休日には、盛岡の町はずれに湧く清水を飲む のを楽しみに私はこれからも撮り続けること になる。そんなふうに町はずれを歩いている さなか、私は過ぎていった真夏の強烈きわま りない光を思い出すこともある。そんなふう に、初秋の光と影には何かしら余裕があるの だ。
 実は、私を通り過ぎてゆく感情は、そんな 光と影のあり方、その移ろい、すべてそこに 集約されて吸収されてしまうのではないか、 という奇妙な感覚が最近の私にはある。どん な不安や危機がやって来たとしても、それを 凝視したうえで写真を撮り続けている限り、 私は決定的に護られている。
 もしかしたら、光と影のコントラストの中 に、この宇宙に存在するすべての思想と感情 が凝縮されているのかもしれない。そう考え てみると、森山大道さんが名作「光と影」を 撮っていた頃に、しきりに「歴史」という言 葉を口にしていたことが何となく理解できる 。それは、音楽家が川のせせらぎや森のざわ めきに、自分を含めた宇宙のすべてを聞き取 ろうとするのと同じかもしれない。
 人類の妄想も、私個人の記憶も感情も、こ の宇宙の過去も未来もすべてのものが光と影 のコントラストに凝縮されて、身の周りにた くさんころがっている。これはとんでもなく 愉快なことではないだろうか。要するに、あ りふれた光と影の中に、実はとてつもなく巨 大なものが隠されている。ただ、そのすべて を解放して語り尽くすことは、生身の人間に は許されていないことなのだろう。
 光と影の中を歩きながらその痕跡を発見し て、宝石の原石を採集するように撮影する。 その中に、さらに新たな光と影を発見する。 それが写真家の仕事であり楽しみかもしれな い。
 そうであれば、私はこれまでどおり、こと さら作為や技術をふりまわすこともなく町は ずれを撮り歩くだけである。奇妙なことだけ れど、それが私の「自由」なのだ。この「自 由」というやつは、ちょっと見には恐ろしい ものだけれど、よくよく目を凝らして見れば それは誤解に過ぎないことが分かる。それと のつきあい方を心得れば良いだけなのだ。私 個人の不安や恐れも、あるいはお金で買える 快楽も、そんな光と影の中でシャッターを押 し続けていると、結局取るに足らないものに なってしまう。その「自由」が私をまたどこ かに導いてくれる。
 あまり関係無いことかもしれないけれど、 過ぎ去った想い出を懐かしむよりも、不安を 飼いならして未来を望む方がずっと心地良い 、という当たり前のことが私はようやく理解 できるようになったと思う。
 …こんなややこしいことを考えている私は さぞかし難しい顔をしているのかもしれない 、と自分では思っていたけれど、盛岡の名所 にさしかかると、観光旅行に来た女の子に記 念写真のシャッターを押すのを頼まれること が時々ある。私はそう小難しい顔をしている わけではないらしい。不慣れな他人のデジカ メのシャッターを押してあげると私は声をか けて、そのままのポーズで私のカメラを構え てもう一度シャッターを押す。そんな出会い も楽しい。


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