時をながめて
歳を取ると時間の流れるのが速くなる、と
言うひとが多い。年末になると、今年「も」
終わりですね、というあいさつをするひとが
多いことからもそれが判る。細かいことでは
あるけれど、今年「は」終わりですね、と声
をかける方が楽しく年を越せるように私は思
う。
若い頃よりも時間の流れるのが速くなった
、と誰かに言われても、私にはそんな実感が
まるで持てない。昔は時間の流れが緩やかだ
った、という印象が私には無いからだ。だか
ら、今年も長かったなあ、いろんなことがあ
ったなあ、という感慨を噛みしめながら私は
毎年大みそかを迎えることになる。大みそか
の午後、私は街に出てあわただしい雰囲気の
中でささやかな買い物をして、晩になると少
しお酒を飲んで風呂に入って、日付が変わる
前にさっさと寝床に入って眠ってしまう。そ
して目が覚めると年が明けて元日になってい
る。そんな年越しを私はずっと続けている。
私事ではあるけれど、元日は私の誕生日であ
る。
ところで、歳を取ると時間の流れるのが速
くなる、ということはまったくの錯覚でもな
いらしく、人間の体内時計の進み方が変化し
てくるからだとか、歳を取って変化に乏しい
生活を送るようになると、過ぎ去った時間を
思い出す手掛かりが無くなるからではないの
か、といった説明もあるみたいだ。あいにく
私はそのどちらにも当てはまらないと思うの
で、こうして長く波瀾万丈な時間を生きるこ
とになる。それが幸せなことかどうかはよく
分からない。もしかしたら、それが孤独の源
であるかもしれないからだ。いずれにせよ、
あらゆる生命はひとりひとりまったく違った
時間を生きているものらしい。これは本当に
不思議なことだと私は思う。
それにしても、私事ながら元日が誕生日だ
というのはなかなか奇妙なものである。元日
になると、その年の十二月まで印刷されてい
る新しいカレンダーを眺めて、今年もこのサ
イクルを降りてゆくのか、という気持ちを誰
もが抱くのだろうとは思うけれど、私は他の
ひとよりもその感慨が強烈なのではないか、
という気がする。そんなことを思っているう
ちに年賀状が届いて、親しい友人はそこに「
誕生日おめでとう」と書いてくれているので
ある。私の時間に対する感覚が他人とずれて
くる原因はこんなところにもあるのかもしれ
ない。
この地球上に生きている限り、我々は地球
の回転に合わせて生きてゆくより他に仕方が
無い。私がうつ病に苦しんでいた頃には、そ
れがとてもやり切れなかったのを憶えている
。あの頃は私の体内時計が狂っていたせいな
のだろうし、病気にもかかわらず、生まれて
初めて海外旅行に出掛けて時差ぼけを経験し
たせいもあるのかもしれない。
その旅のさなか、フランスの古都ランスを
ひとりで写し歩いていた時、かばんの中から
ふと日本時間のままの古風なアナログ腕時計
を取り出してみると、そこには昼とも夜とも
判らない得体の知れない時刻が示されていた
。それは私にとって本当に衝撃的な体験だっ
たと思う。それはランスの明るい陽光とはま
るで不釣り合いな狂気であるように思えたの
だった。当たり前のことではあるけれど、地
球の反対側では今とはまったく別の時間が流
れている。あれは、律儀に流れ続ける時間か
ら離れてみる、とても貴重な体験だったと思
う。そして、その直後の時差ぼけとうつ病の
戻りのおかげもあって、私の時間に対する認
識はより深まったように思う。
そんなわけで、物理学に疎い私がこんなこ
とを言うのは物笑いの種になるだけなのかも
しれないけれど、絶対の基準も無くて、さか
のぼることも留まることも速めることも不可
能なくせに、いつのまにか自在に変化してい
る「時間」というものをそんなに信頼してよ
いのだろうか、と私は疑問に思う。こんなに
不便で得体の知れない「時間」というものは
、この宇宙のかりそめの制度に過ぎないよう
に私には思えるのだ。
時間は常に流れ続けていて、過ぎ去った時
間を二度と取り戻せないのは確かなことなの
だけれど、その流れを正確に記述することは
不可能なのではないか、という気がする。時
計によってそれを正確に測定することは可能
だけれど、その正確さを無条件に信じてよい
のかどうか、私には分からない。
結局、相対性理論とか熱力学とか、いろん
なことを理解しなければ「時間」を探究する
ことはできないのだが、その専門的な理解が
かなわない私としては、お正月に「ご用心、
ご用心」と唱えながらガイコツを掲げて歩い
たという一休さんを思い出しておきたい。そ
して「正月は冥土の旅の一里塚」というよく
知られた言葉よりも、石川淳の「元日や机上
に荘子事もなし」という句の方が、この混沌
の世界を生きてゆく年の始めにはふさわしい
ように思える。今年もまた美しい青空が望め
るように、願いながら。