私の「小笠原紀行」

三月の末に私は念願の小笠原を訪れた。現 地滞在が三泊四日の短い旅で、母島に二泊、 父島に一泊しただけだから「小笠原紀行」な んて大それた看板を掲げる資格は私には無い 。旅行者としてここを訪れるにしても、少な くともこの倍の時間をかけなければ小笠原を 見た、ということは言えないだろう。旅を終 える頃に私はそう思った。
 それでも、ここで過ごした時間が私にとっ て本当に大切なものになったことに変わりは 無い。そして、小笠原に限らず南の島を訪れ るのは私は初めてだったのに、見知らぬ場所 にやって来た、という感覚が全く無かったの はいったいどうしてだったのだろう。父島の 田舎道が紀州白浜の風景を思わせたのは確か だったけれど、それ以外の場所でも私は既視 感に似た感覚とずっと一緒だった。しかも、 旅の前に穴のあくほどながめていたガイドブ ックの写真は、本物の印象を全く伝えてはい なかったのである。
 小笠原はまる一日以上船に揺られてようや くたどり着く遠い南の島であるにもかかわら ず、そこはいい意味で日常の延長線上にある 場所でもあった。つまり、そこにはひとびと の普通の生活があった。そして豊かな南の自 然があった。
 ずっと北の地で暮らしてきた私には、いつ の日か遠い南の島を訪れたい、という気持ち が昔からあった。どうせ行くなら船でしか行 けない島に行きたい。不便であっても自然が 豊かな島を歩いてみたい。そして、戦争の傷 痕や悲しみがいまだに生々しい島はその後に 訪れたい。そんな気持ちから私は小笠原への 関心を深めてきた。
 この数年の間に、私は小笠原に関する本に は可能な限り目を通した。それでも、現地で 私が感じた既視感のような感覚について言及 していたひとは誰もいなかった。あの感覚は 何なのだろう。少しずつ現像から上がってく るその時の写真を見ながら私はそれを考えて いる。
 ところで、小笠原がいちばん栄えていたの は大正から昭和の初め頃、つまり戦前だった 、とは小笠原の本には必ず書いてあることで ある。さとうきびや夏野菜の栽培のおかげで 経済的にもずいぶん豊かだったらしい。当時 は日本が支配していた太平洋の島々へ向かう 船の寄港地としてもそこはにぎわっていたと いう。旅路は今よりも厳しかったにもかかわ らず、その頃、小笠原は決して「最果ての島 」ではなかったことになる。
 そんな時代に、北原白秋やサトウハチロー といった何人かの作家たちが小笠原を訪れて いる。その中で、私がずっと好きだった中島 敦のことを私は旅に出る前から思い続けてい た。
 中島敦は南の風土とは無縁の生い立ちだっ たにもかかわらず、成人してからずっと南の 島の生活にあこがれていたひとだったと思う 。南の島を題材にした小説も書いているし、 その短い生涯の中で、書記官として実際にパ ラオ島へ赴任したりもしている。
 彼は二十六歳の頃、つまり喘息の発作で亡 くなる六年くらい前に小笠原を旅している。 私の手許にある簡単な年譜を見る限り、これ が彼の初めての南の島への旅のようである。 当時、中島敦は小説を書き始めてはいたもの の「山月記」や「李陵」といった名作はまだ 書かれてはいない。習作期を脱する頃だった のではないかと私は想像する。
 どんな理由で彼が小笠原を訪れたのか私に は分からないけれど、喘息のために早世した 彼は決して健康体ではなかったはずだし、横 浜で高校の教師をしていた彼が公用で小笠原 を訪れたとも思えない。そんな彼が、今より もずっと難儀だった船旅を覚悟してまでここ を訪れたのはなぜなのだろう。
 ただ、彼は幼少の頃から東京を離れて奈良 や朝鮮に住んでいるし、小笠原への旅の直後 には中国旅行にも出ている。その風貌に反し て、中島敦というひとは案外体力のあるひと だったのかもしれない。彼は、喘息なんかで は抑えることができないほど旅に憑かれたひ とだったように思えてくる。そのへんのとこ ろは、彼が敬愛して自らの小説のモデルにも したスティーブンソン(「宝島」の作家)と 同じだったのだろうか。いつの頃からか彼の 中で芽生えていた南の島への憧れを試す意味 で、中島敦は小笠原行きを選んだのかもしれ ない。それは今から七十年以上前のことだけ れど、旅の季節は偶然にも私と同じ三月であ る。
 その旅で、中島敦は「小笠原紀行」と題し た百首もの短歌を残している。これは、ちく ま文庫から出ている「中島敦全集」の第一巻 に収められているので手軽に読むことができ る。
 私は今まで短歌を集中して読んだ経験が無 かったので、旅に出る前はそれに目を通すこ とができなかった。しかし、旅を終えてから ようやくこれを読んでみると、あの、誰も口 にしていなかった小笠原の既視感が生々しく 定着されていることに私は驚いている。
 この「小笠原紀行」は短歌というよりも、 鮮やかなスナップショットのように私には思 えてしまう。ここには彼の感情はあまり見当 たらず、初めて訪れた南の島の風土や人情を 全身で受け止めようとする彼の姿勢が強く感 じられる。七十年の時を経てもそれは色褪せ ることが無い。中島敦の短歌がどのように評 価されているのか私は知らないけれど、これ は驚くべきことであるように思える。きっと 、中島敦も小笠原で生き返るような思いを味 わっていたのに違いない。
 ただ、残念ながら彼は母島を訪れてはいな いらしく、母島の短歌はここには見当たらな い。母島の風情に接していたら中島敦はどん な短歌を詠んでいたのだろう。そう考えてみ ると少し残念な気がしないでもない。
 いずれにせよ、小笠原という不思議な島々 は、旅人がそれまで抱えていたつまらない悩 みを洗い流して、生きる勇気をそっと与えて くれる。それは確かなことだと私は思う。中 島敦はその旅で、それまで抱いていた南の島 への憧れをさらに膨らませることができたの だろうし、それから六十年後に小笠原を訪れ た美智子皇后が、一時期失っていた声をそこ で取り戻した、という話がとても説得力を持 って思い出されるのだ。
 私は、船酔いに苦しんだあげく、父島にた どり着いた時に目にした強烈な陽光を忘れる ことができない。三半規管を往復で二日以上 揺すぶられたその苦痛も、私を癒すのにひと 役買っていたのかもしれない。そして、母島 のひそやかな風情と暖かな人情も忘れられな い。母島の乳房山を登ることで、海を見なが ら山登りをしたい、という積年の望みをかな えることができた。父島では、初めて出会っ たひとたちと心を開いて深い語らいをかわす ことができた。偶然とは思えない出会いもあ った。
 母島から父島に移る時は、私ひとりのため に、宿のひとがここまでして見送ってくれる のか、という感動を味わうことができた。旅 の終わり、つまり父島を出航する時には、そ れとはまた違った豪快な見送りを受けること もできた。それが私をどれだけ励ましてくれ るものか。そして、小笠原の不思議な自然も 忘れられない。
 いつの日か、私はまたここを訪れることに なると思う。もちろん、小笠原が様々な問題 を抱えていることも旅に出てみて少しは分か った。それでも、旅の思い出とそこで出会っ たひとびとに感謝しながら、まずは小笠原で 撮ってきた写真を私はじっと見ていたい。そ の写真群が、あの、不思議な既視感を少しで も伝えてくれたら、と願うしかない。自分で もよく分からないままに、大した理由も無く 小笠原に憧れ続けてきた不思議がそこにある のかもしれない。


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