いつか来る現在、過ぎていった現在

三月の初めに私は風邪をひいてしまった。 風邪が治りかけた頃、私は池田晶子さんの「 人生は愉快だ」という本を買ってきて読み始 めて、今も少しずつ読んでいる。
 風邪をひくと、その回復とともに心身を新 しく立て直すことができる、という話をどこ かで聞いたことがあるけれど、その意味でこ の本は、私が今のんでいる「風邪の後期の症 状に効く」という漢方薬に似ているような気 がする。微熱でぼんやりしていると、普段以 上に私はわけの分からないことを想うことに なる。それもまた面白い。決して愉快な体験 ではないが、時々は風邪をひいた方が心身の 健康にはよいのかもしれない。
 この「人生は愉快だ」には池田さんが亡く なる直前に書きためたり他人の悩みに答えた りしていた文章が収められているけれど、池 田さんの文章なのだから、ここには世間に満 ちあふれている死への恐怖や人生への未練な んかは言うまでもなく皆無である。より自由 に、しなやかな思考がやさしい文章でつづら れていて面白い。
 私のように、あれこれ思い悩んだあげく風 邪をひいて寝込んでしまうと「過去も未来も 現在に存在する」「現在に安心し、幸福にな らずにいつ幸福になれるのか」という言葉が ようやく切実に感じられる。過去も未来も幻 想にすぎない、というのは確かに正しいと私 も思う。ただ、その幻想はあまりにも甘美で あることも私は痛いほど知っているので、未 来はいつか来る現在、過去は過ぎていった現 在、ということで話を落としておきたいと思 う。
 それでは現在とは何なのか、と考え始めて みると、これも私にはよく分からない。  未来や過去が幻想であるのならば、現在と は静止した一瞬なのだろうか。そうであれば 、世界は凍りついたように静止してしまって 、我々が現在を知ることはできなくなるので はないか。結局、現在も過去や未来、つまり 時間を含まなければ存在できない。現在には 必ずあいまいな時間の幅が存在しているので あって、その時間の流れをいくら切り刻んで みても現在という点は現れない。
 現在という静止した時間の点が幻想である のならば、現在も未来や過去と同様に幻想な のかもしれない。現在が特別な時であること まで否定するつもりは私には無いけれど、そ の根拠を探し出すことは私にはできそうにな い。時間の流れというものはなかなか厄介な ものだと思う。実体が有るのか無いのか、そ れは様々な姿を見せてひとを迷わせる。
 現在という一瞬を定着するのがなりわいと される写真家にとって、これは実にきわどい 問いになると私は思う。写真に定着された一 瞬とは、本当はほんの短い時間の軌跡なのだ 、と答えればとりあえずこの迷路から抜け出 ることはできるけれど、私はそれほど楽天的 になることはできない。写真によって時間を 止める、という幻想によって写真家は支えら れているように私には思えるからだ。その上 で、時間の流れとは、そして現在とはもしか したら幻想にすぎないのではないか、そんな 疑念を持たないひとが撮った写真はつまらな い。私はそんな気がしている。
 以前読んだ湯浅泰雄著「共時性の宇宙観」 という本には、現在とは何なのか、と深刻に 思い悩んでいたアインシュタインの話が出て いた。現在が持つ特別な意義は物理学の法則 には現れない。「現在」を考慮しなくとも宇 宙の法則には何の差し支えも無い。やはり現 在とは幻想でしかないらしい。「現在」には 科学の外に出た何かがある。とこの本には書 かれている。
 「いずれにしても、時間というものはどう やら、身体と心、したがってより大きくいえ ば、物質と精神の関係について考える場面で 、科学的思考法と記憶および直観の座である 無意識の関係について、何か重大なことを教 えているらしい。」という文章がこの本に現 れる。この文章をよく理解することが私には いまだにできないけれど、ここには本当に大 切なことが語られている、ということだけは 感じ取れる。
 ところで、幼い頃の大切な想い出が持つ意 味合いが、四十歳を過ぎてから少し変わって きたような実感が私にはある。それは、時間 に対する態度がこれまでとは変わってきたこ とを意味していると思う。想い出が鮮烈であ ることにはいささかの変わりも無いけれど、 それはいつのまにか脱皮をとげて、その意味 も位置も今までとは変わってきているのだ。 それは私に新しい自由をもたらしている。歳 をとることによって得る自由というものを私 は初めて知った。
 繰り返しになるけれど、時間の流れとは実 に不思議なものだと思う。その自由と厚みを 踏まえて、私はこれからもそれを考え続けて ゆくことになる。もちろん、写真を撮り続け ながら、である。それは、私にとっての「写 真への旅」になるのだろう。
 それにしても、やはり池田晶子さんの死は 惜しまれるべきだと今の私は思う。生き続け て、この世で思索するべきことはまだまだた くさんあったのではないか。「人生は愉快だ 」には古今東西の哲学者や宗教家が考えた死 について思索した池田さんのエッセイが収め られている。池田さんにはもっと生きてもら って、哲学者や宗教家だけではなくて、科学 者や芸術家の思考についても思索してほしか った。また、たとえば棋士やスポーツ選手と いった全く異分野のひととも存分に対話を繰 り広げてほしかった。その面白さを想像する と、私は本当に池田さんが悼まれてならない のだ。


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