冬の終わり
二十代の頃、ゲイリー・ピーコックの「テ
イルズ・オブ・アナザー」というレコードを
毎日繰り返し聴き続けていた時期があった。
これは、その後に活動を始めるキース・ジャ
レットとジャック・デジョネットが加わった
ピアノ・トリオの初顔合わせでもあるのだけ
れど、私はその「スタンダーズ・トリオ」の
録音はさほど聴きこむことは無くて、あまり
知られていない「テイルズ・オブ・アナザー
」の方をひたすら聴き続けていた。ピアノ・
トリオのレコードはこの一枚があれば充分で
はないか、という当時の私の思いは今もさほ
ど変わっていない。
他にもポール・ブレイの「フラグメンツ」
や「アローン・アゲイン」、アルバート・ア
イラーの「スピリチュアル・ユニティ」、マ
イルス・デイヴィスの「ネフェルティティ」
、ハービー・ニコルズの「トリオ」、グレン
・グールドの二度めの「ゴールドベルク変奏
曲」等々、二十代の、私がこれまででいちば
ん血気盛んだった頃にひたすら聴き続けて、
もちろん今でも好きだけれど、いつのまにか
滅多に聴かなくなってしまったレコードを最
近またよく聴くようになった。
こんなものすごい音楽を朝な夕なに聴いて
いたのか、と思うと恐ろしいような気もして
くるけれど、そんな私がまるで前世の自分の
ように思えて奇妙な気がしていたのもいつの
まにか思い出になってしまったように思う。
あの頃に読んだ吉本ばななの短編に「人は本
当は一生同じようなところをぐるぐるまわっ
ているだけのものなのに。」という文があっ
たのを私は最近また思い出している。自分が
どう変わってゆくのか、そのことにしか関心
が向かなくなる、極めて身勝手な時期がまた
めぐってきたみたいだ。世界とは私でしかあ
り得ないのだから、これは世界が変わってゆ
くきざしなのだ、というかなり危ない言い訳
が心地良いのである。
ただ、同じところをぐるぐる回っているに
せよ、高さを変えればそこからの見晴らしは
変わってくる。らせんを昇るように生き続け
、らせんを降りるように考え続けることがで
きたら楽しかろうと思う。
話は変わるけれど、この文章を書いている
のは二月のなかばで、一年で一番寒さが応え
る季節である。それにもかかわらず、なぜ多
くのひとが北を愛し北に住み続けるのか、そ
の理由がようやく私にもおぼろげに分かって
きたように思う。冬の寒さが厳しいほど、春
の芽吹きのエネルギーが凄まじいからなので
はないか。それに備えて、厳しい冬は活動す
ることよりも眠ることに気遣って生きていれ
ばよいのかもしれない。北国ほど人間の睡眠
時間は長くなるというけれど、それにはそん
な理由もあるのかもしれない。悪い夢を見る
ことなく深い眠りを生きること。それも北な
らではの営みかもしれない。
あの、日一日と、刻一刻と世界が変貌して
ゆくような、すさまじい春が間もなくやって
来る。その新しい芽吹きは自らの古い皮膚を
内側から突き破って現れる。その苦痛はすで
に感じられる。そして、本当にひさしぶりに
ゲイリー・ピーコックの音楽が聞こえてくる
。以前、ジャズ喫茶のおやじに「最近はあま
りゲイリー・ピーコックが好きではなくなっ
た」と言ったら「それはあなたの冒険心が薄
らいできたからではないのか」と言われたこ
とを思い出す。それからまた時を経た今、ら
せんをひと回りして、違う高さから二十代の
頃と同じ景色を私はまた見ているような気も
する。
いったい何が始まるのか、この嵐の始まり
は、実は一年前の冬にあのひとがくれたささ
やかな贈り物だったのだけれど、それを最後
に姿を消してしまったあのひとは、遠い町で
今頃どうしているのだろうか、と私はふと想
うことがある。