山のあなたの空遠く…
この年末年始の休みはいつもよりも長かっ
たので、私としてはずいぶん本を読んだよう
な気がする。休みが長いとは言ってもお金が
たくさんあるわけではないし、遠出をする気
にもなれないので、外出と言ってもせいぜい
近場の温泉に出掛けるくらいである。もちろ
んカメラを持ってゆくのだけれど、いつも以
上に写真をたくさん撮るわけでもない。温泉
につかり、少し買い物をして自宅に戻り、大
掃除を済ませてしまえば幸い天気には恵まれ
ていたので洗濯をして布団を干して、あとは
手持ちぶたさな午後にはLPレコードやFM
放送を聞きながら本を読み続けていた。それ
はそれで悪くない休暇だった。
そんな時間を持つことができると、がつが
つ働くのがいかに心身をむしばむか、という
ことがよく納得できる。まともなサラリーマ
ンから落ちこぼれてしまった私でさえそう思
うのだから、ひと並以上に働いている大多数
のひとの苦労が改めてしのばれる。そして、
それさえもかなわずにこの寒空のもと、文字
どおり路頭に迷うひとが大勢いる。私もその
一歩手前まで追い詰められたことがあるので
、正月と言っても脳天気な気分にはとてもな
れない。まさに、明日は我が身、かもしれな
いからだ。ただし、その覚悟を持てるだけ私
は幸せなのかもしれない。読書のあいまにそ
んなことを考える。
働いてさえいればあとは何とかなる、とい
うのはもしかしたらただの甘えではなかった
のか。その前提が今、崩れただけではないの
か。それ以外に何も考えず、何もしないで忙
しさと目先の安楽にうつつを抜かしてきた結
果がこれではないのか。私にはそう思えてな
らない。これはワーカホリック、まさに仕事
中毒の禁断症状なのかもしれない。
無為の時間が少なすぎるのである。まとも
な大人がひと月もの休暇を取れる国は決して
少なくないのに、どうして日本がそうなれな
いのか、私には不思議で仕方がない。そして
、長期休暇と言えばお金のかかるレジャーし
か考えつけない大方の日本人は、確かに後進
国の貧民である。何もしないで無為に過ごす
バカンスの良さが認められる世の中になって
ほしい。そうであれば、私もひと並に勤めを
続けながら写真家を名乗ることもできたかも
しれない。そんな国になるためには、現在の
ような非情な世の中を経験する必要があるの
かもしれない。しかし、こんなに笑顔が少な
い世の中にいったい何の価値があるのだろう
か。私にはよく分からない。
そんなことを考えて過ごす正月なのだから
、読む本もなるべく憂き世離れしたものに限
るのである。私は梅崎春生の「幻化」をひさ
しぶりに読み返し、前川嘉男の「ロートレア
モン論」を読み始め、谷崎潤一郎の「細雪」
の後半を読み終えた。こんな世の中で、同時
代の新刊小説を読もうというひとの気が知れ
ない。時代も場所も異なる本を読んだ方がか
えって今の自分がよく分かるというものであ
る。そして何よりも面白い。
「幻化」の幕切れで、主人公の同伴者が阿
蘇山の火口に飛び込むかどうかで賭けをする
場面は何となく「マルドロールの歌」の終わ
りを思わせるとか、あれやこれやと思うこと
はあるのだけれど、後半を一気に読み通した
「細雪」がとても面白かった。
その文庫本の解説にも少し書いてあったこ
とだけれど、これは戦前の関西の上流階級の
優雅な風俗絵巻と言うよりも、古風なブルジ
ョワの愚行録、喜劇の一種として読む方がず
っと面白いような気がする。彼らは身勝手な
愚行を繰り返すわりには世間体ばかりを気に
病んでいる。その、延々と続く愚痴をこんな
に面白く読ませてしまうのは文豪の力なのだ
ろう。
そして、この小説の登場人物たちは実に病
気がちで身も心もひ弱である。そこがまた喜
劇的で面白いのだが、お金と暇を持て余して
いるのに、彼らは学問をするでもなく身体を
鍛えるでもないのだから、それも仕方の無い
ことなのかもしれない。これは必ずしも時代
のせいばかりではないのだろう。そう考えて
みると、彼らは現在の我々と同じである。こ
の小説が今でも面白い理由がそこにあるのか
もしれない。
昔の日本を懐かしむつもりは無いけれど、
それでも「細雪」の時代は戦争をひかえてい
たとは言え、今よりもずいぶん自由だったの
ではないか、という気がしないでもない。平
均寿命は今よりも短かったはずなのに、彼ら
はさほど年齢を気にする様子もない。そのあ
たりはとてもうらやましい。
しかし、「細雪」を読み終えて正月休みも
終わると、いったいどうしたんだ、と言いた
くなるような乱れた世の中に引き戻される。
「細雪」の時代の方が今よりもずっと平穏だ
ったように思えてしまうのはどういうわけだ
ろうか。
いつの間に我々はこんなに鈍感かつ冷酷に
なってしまったのだろう、と思う。日本にい
る限り、空から爆弾が降ってくる心配は無い
し地雷におびえて生活することも無い。その
意味では確かに日本は恵まれているけれど、
我々が仕事や住まいを失っても政府や企業は
何もしようとはしないし、政治的宗教的な理
由もなく無差別殺人がこんなに横行するのは
おそらく日本だけである。そして、この国で
は年間三万人以上のひとが自ら生命を絶つ。
つまり毎日百人くらいのひとが自殺している
ことになる。この世は生きるに値しないと決
断して死んでゆくひとがこんなにたくさんい
る。
隣人の不幸にこんなに無関心なのは日本人
だけではないのか。その意味で我々は世界で
いちばん薄情な民族なのかもしれない。隣人
の不幸を放置していると、いずれそれは我が
身にはね返ってくる。そんな簡単なことも我
々は忘れてしまったのだろうか。こんな世の
中を、大方の連中はどうしてこうも平然と生
きていられるのだろう。その厚顔ぶりが私に
はどうしても理解できない。
平日の朝、つまり仕事に出掛ける朝のこと
であるが、寝床から出るまでのまどろみの時
間に私はいろんなことを思い出すようになっ
た。楽しかったことも辛かったことも、嬉し
かったこともはずかしかったことも、本当に
たくさんの思い出がその時にやってくる。し
かし、それは過ぎてしまったことである。で
あれば、いずれ思い出になってしまう今の自
分でさえ仮の姿でしかない、ということにな
る。そして、部屋の窓からさしこむ朝の光と
天井の木目を眺めて、俺は自由に生きていい
んだ、と思ってみたりする。それから私は寝
床を出る。そうでもしなければ、私はこの現
実を生き続けてゆく自信が持てない。
心あるひとから「あなたはまともなひとな
んですよ」と何回か言われたことを私は今思
い出す。それをどう受け止めたらよいのか私
は今でもよく判らないけれど、まともな人間
がこんなに生きづらい思いをするんだったら
、いったい今の世の中は何なんだ、と改めて
私は思う。
どういうわけか、先日テレビで見かけた山
深い秘境の国、ブータンのひとびとの自然で
素敵な笑顔が忘れられない。昔の日本を思わ
せるその生活ではあるが、それこそ「細雪」
のような精神的な堅苦しさはそこには見当た
らなかった。古い町並みの中で、民族衣装を
まとったひとびとが携帯電話を使う姿も不思
議なくらい違和感を感じさせない。伝統と自
由、自然と文明が調和する世の中は可能なの
だと思う。老子の言う「小国寡民」がここに
あるのだろう。そこに、日本のような頽廃が
広がる余地は無いように思う。
結局、一億三千万もの人口を抱える日本は
、冷酷な格差社会に甘んじるしかないのかも
しれない。統計を見ると、日本より多い人口
を抱える国は全て格差社会か不安定な後進国
である。人口が多いということは、それだけ
でクレイジーなのだと私は思う。大量発生し
たバッタやねずみが凶暴になって共食いや集
団自殺に走るのと同じなのだろう。こんな世
の中では、まともな人間は弱いふりをして、
だらしないふりをして生き続けるしかないの
かもしれない。山のあなたの空遠く「幸」住
むと人のいふ…